私たちの「不断の努力」

「不作為の責任」とは?

政治や社会の様々な問題に対して

 

退職後、私はこのブログで趣味の登山やくるま旅、持久系スポーツなどについてアップしてきました。
今後も引き続きこうした生き方、過ごし方について記していきたいと思っています。

一方、普段の生活の中で感じていることや疑問に思っていることも同時に書き続けてきました。
それはブログのカテゴリー一覧を見ていただければわかると思いますが、「政治・経済と暮らし」「年金制度を考える」「環境問題と原発」「親の介護」「沖縄基地問題」・・・など、私たちの身近な問題を取り上げ書き綴ってきました。
こうした政治・社会問題を個人ブログでアップすることに初めは躊躇しました。しかし、こうした問題は、他人事ではなく直接私たちの生活と直結しているものとして避けて通れない事だと思いました。

今、現実に起きている問題を取り上げ、その考えや意見を述べることに対し「偏っている」のではないか?とお思いになられる方もいらっしゃると思います。
一般的に「右寄り」「左寄り」などとを分けて「そういう考えの人なんだ」と区分けしがちになることもあるでしょう。
では逆に「あなたはどう考えますか?」という問いに対し、「私はどちらとも言えない」というふうに ”中立的な立場?” に立つ人もいるでしょう。これは、一概には言えませんが、常に第三者的な立場で安全な場所?に身を置いていることにもつながります。

選挙で「俺の、私のたかが一票で政治なんか変えられない」という理由で投票に行かない。様々な市民運動などで「訴えたところで現状は変わらない」と言って、常に傍観者的な立場でモノを考える人もいるでしょう。
もちろん、こうした人たちを批判するつもりは毛頭ありません。ある意味、現実的にはそうした行動が主流になっていることも否定できないからです。

 

先日、会員となっている今年の同人誌(年一回発行)が送られてきました。
私も今回「日本百名山に教えられたこと」と題して投稿しました。この同人誌は主に退職された教員の方が多く、随筆・散文・読書感想・趣味など多岐に渡った文が掲載されています。

書店で販売されている書物とは違い、私たち一般庶民の生活の中から出てくる素直な気持ち、自分では考えつかない他の人の思いを知ることができとても勉強になる一冊です。

 

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今回の投稿文で「私たちの追分」と題した随筆が寄せられていました。
その中に『不作為の責任』という一文に目が留まりました。

この言葉の意味を調べたところ、法律用語として存在していました。「不作為」とは、自ら進んで積極的な行為をしないこと、法によって期待された行為をしないことの意味のようです。

例えば、私たちの身近な問題として、会社の中でパワハラやサービス残業などが行われているにもかかわらず、会社側や人事部が重大な問題として取り上げずそのまま放置する状態があります。
本来、社会的に責任ある立場の会社側が対処すべき問題なのに ”何もしない” ことを指します。こうしたことによってどのような事態が発生するのか?

政治や社会問題でも同じようなことがあります。
これは私たち自身にも問いかけられる問題として考えさせられます。
時の政権が憲法を無理やり解釈して集団的自衛権を閣議決定したり、政府が国会審議なしで安保関連三文書を勝手に決めて防衛費増を進めたり、安全性に不備があるにもかかわらず原発再稼働、沖縄基地問題も日本学術会議任命拒否問題もしかり・・・。
こうした国の行く末に関わる重大事項に対して反対、反論、批判することは「偏っている」ことなのでしょうか?

偏っていないことをよく「中立」とか「公平」と言ったりしますが、対立する意見がある中で、「どちらも組しない」、あるいは「中をとる」ことが「偏らない・中立・公平」なのでしょうか?・・・。
「何もしない(不作為)」「意思表示をしない(選択と決断回避)」ことはそれを推し進めようとしている勢力にとってこれほど都合のいいことはありません。それは反対させないことと同じです。「不作為」「中をとる」ことによって、結果として現実勢力に大きく「組し」、「偏った」ことにならないでしょうか。
それは何もしない「不作為」によって、ある方向を「排して」、他の方向を「選び取った」のです。
同人誌の「私たちの追分」からの一文

これらのことは、会社での中間管理職の「見て見ぬふり」、又、以前話題となった「官僚の忖度」といった行為も当てはまる問題だと思います。
「たかが一票で何も変わらないから投票しない」「反対署名したって無駄なこと」、更に「見て見ぬふり」「忖度」、会社側や政権にとってこれほど都合の良いことはありません。
結果、何もしない、何も言わないことは、認める方向を「選び取った」ということに通じるのでしょう。

 

この筆者が「不作為」を取り上げた問題として、2006年の「教育基本法」改定問題を挙げていました。

東京のある区の教育委員会は校長会で、「教育基本法改定問題」に触れてはならない」という指示を出しました。改正反対運動が大きく起こっている中で、学校現場ではそういう政治問題化していることには触れるなというわけです。
子どもたちの教育の在り方、教師の在り方が大きな岐路に立っている問題について、当事者である教師は賛成・反対どちらの側にも立ってはならない。つまり、議論したり意思表示することはどちらかに「偏る」ことだということでしょう・・・。
全国小中学校校長の7割が反対というほどに学校現場では反対しているとき、「問題そのものに触れない、触れさせない」とは客観的にどういうことなのでしょうか?

同人誌からの一文

私は今まで一般企業の小売業に従事してきて、学校教育やその現場とは全く異なる仕事をしてきましたが、この文を読んでその考え方や在り方について理解できるものがあります。
よく「政治問題」について、何らかの意見や考えを述べたりすると「偏っている」ような目で見られたりもします。
しかし、意思表示をしない、中立的?、見て見ぬふり、忖度?・・・、それは、体制側や強い力のある方に偏っていると言えるのかもしれません。

 

「不断の努力」

 

筆者は最後に憲法第97条の基本的人権と第12条について触れていました。

第12条
「この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」

不断の努力とは、「日ごろから途切れさせることなく継続するような努力」とあります。
あまり考えたこともなかった言葉ですが、このことは日本国憲法そのものに言えると思いました。

前述した国会審議なしでの集団的自衛権や安保関連三文書の閣議決定により防衛費拡大、専守防衛を捨てて敵基地攻撃、米軍基地問題など様々な言い訳や解釈によって憲法違反が平然と行われてきています。

私たちの生活を守る、憲法を守ることに筆者は、「『不断の努力』をすることによってのみ守られる。私たち自身の『不断の努力』を怠れば、いつ奪われてしまうかわからないという警告でもあるのだと思います」と記していました。

私たちが「何もしない」「何も発しない」のであれば、現政権や利害関係のある人たちにとって都合のいいように解釈され「改憲」にもつながるのではないでしょうか。

 

以前、大学時代の恩師についてブログアップしたことがあります。ブログ:大学ゼミOB会

大学ゼミでの担当教授は、ゼミテーマの「労使関係論」とそれに関わる様々な政治・社会問題を取り上げました。そこでは常に「君たちはどう考えるか」という問いがありました。
振り返れば、課題テーマに直接関わりのない事柄であっても、これから社会に出て行く学生たちにとって問題意識を持たせる授業だったんだな~と思いました。
そこには「不作為」であってはならない、「自分の身として考えなさい」という問いかけがあったと思います。

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