プロフィール

■ 名 前   すーさん
■ 生 年   昭和31年生まれ(1956年)
■ 所在地   埼玉県 (静岡県出身)
■ 家族構成  カミサンと二人 (一人娘は結婚)
■ 趣 味   登山、料理、ラーメン食べ歩き、読書(時代物)
■ 嗜好品   コーヒー、日本茶(静岡川根産)、たばこ(1日10本)
■ 苦手な物  お酒(ビール1杯程度)、化学調味料
■ 生活信条  全ての人を尊重しよう 家族のために尽くそう 毎日の生活を楽しもう

このブログは、2013年3月早期退職以降の完全リタイアライフの記録です。
退職後の生活は、登山、山歩き、キャンピングカー(夫婦くるま旅)を楽しみ、セカンドライフをより充実したものにしていこうという考えと実践のブログです。

 

グランドキャニオンの夕日

 

私たちの世代

時代背景

昭和30年代前半に生まれた私たちの世代は、団塊世代の少し後に生まれ、高度経済成長が始まる時期でもありました。

静岡の片田舎に生まれ育ち、高校時代は夜遅くまで深夜のラジオ番組を聞くのが楽しみでした。
当時、城達也の「マイディアライフ」で流れるナベサダの軽快なジャズリズムは、華やかな東京への憧れを募らせるに充分でした。吉田拓郎、かぐや姫などフォークソングが全盛期で、大学時代はユーミンの「ひこうき雲」やハイファイセットの「フィーリング」が学園に流れ、ニューミュージックが台頭してきた時代でもありました。

70年安保以降、若者は戦闘的な政治闘争の組織活動から個人の安定を求める意識に移向していった時代のように思われます。

 

団塊世代の背中

日本の学生運動が下火になった時期で「三無主義」(無気力、無関心、無責任)という表現や「しらけ、ノンポリ」などとマスコミに揶揄される世代でもありました。

社会人としては、常に闘争精神を持った団塊世代を上司に持ち、一歩引いた姿勢で引っ張られていく世代だったのではないでしょうか。
「しらけ、ノンポリ?」でありませんでしたが「会社人間」という言葉が流行った時代の真っただ中、残業は当たり前で深夜遅くまで仕事を続ける毎日を送り、バブルの恩恵も受けてきました。バブル崩壊後は多くの同僚が去っていく中、それでも突っ走る団塊世代の背中を追い続けてきたように思います。

 

60歳定年から65歳退職へ

団塊世代の先輩たちはすでに定年退職して60代半ばにきています。その背中を追ってきた私たちの世代も目の前に定年退職という人生の大きな壁を見ています。私と同世代の同僚や同期生のほとんどは、その節目でリタイヤするか継続するかという選択を迫られています。

私たちの年金受給の報酬比例配分は62~64歳に繰り上げされ、働かなければ収入ゼロ、継続雇用を続けても半減という現実です。継続雇用された人は65.8%、希望しなかった人は26.8%という実態があります。又、継続理由として「生計維持のため」が69.3%だそうです。 資料「高年齢者の継続雇用に関する実態調査」結果より

私が勤めていた会社の同僚たちの考えを聞くと継続雇用希望者は8割以上でした。理由は「生計維持」3割、「当面やることがない、とりあえずこづかい稼ぎ」7割でした。公的な制度としての60歳定年は、今や65歳定年に突き進んでいるといった現実なんですね。

 

夫婦共働き

共働き比率45%

共働きの世帯は増加傾向にありますが、ある資料によると妻がパート、フルタイムの就業比率は45%で約半数を示しています。(自営業、家族経営除くサラリーマン世帯)
私の勤めていた職場では、多分7割くらいあったのではないかと思います。
理由は、「女性の働く意欲の向上」と「生計維持」が大半。中でも「生計維持」は、ご主人の収入がバブル崩壊以降低迷を続け住宅ローンや教育費の増加により家計維持のために就業せざるをえない現実があったと思います。

共働きの内訳で、フルタイム同士の比率は15%程度です。当然ながら子育てがありますから、妻は今まで働いていた職場を辞め育児に専念するという構図になります。
子どものいない家庭では、フルタイム同士の共働きを維持することができますが、子どもがいる家庭でフルタイムを維持することはきわめて厳しく、女性に大きく負担がかかってくることは目に見えています。

内閣府男女共同参画局 「夫婦フルタイム共働き」

 

女性の働く意欲を尊重

私たちは結婚以来30年以上、夫婦共働きを続けてきました。
私自身、カミサンに定年まで働き続けてほしいという考えがありました。
当然、家事育児は分担ということで決めましたが、やはり妻に負担がかかってくることは否めません。
妻が専業主婦、又は、パートという一般家庭に比べ多少経済的にはゆとりがありましたが実際は、二重保育や二人分の交際費、時間をお金で買うなどの出費はそれなりにありました。
結婚当初から「老後はゆとりある生活を送りたい」、だから共働きをするという考えは全くありませんでした。
女性の社会進出の後押しや働く意欲、意志を大事にしたいという考えからです。結果として経済的な面で早期退職できる条件を満たすことができました。夫婦共働きを続けてきたことには満足しています。苦労をかけたカミサンに感謝の気持ちでいっぱいです。

 

生き方を考える

異業種の仲間たち

30年以上も職場と家庭の往復を続けていると、それ以外の場所でのコミュニケーションはなかなかないものです。趣味などの同好を通じて定期的な交流や接点があれば別ですが、この世代のサラリーマンはいわゆる「仕事人間」でしたので、休日は家でゴロゴロしているか家庭サービスとして買い物などに同行する程度だったと思います。


いざ定年を目の前にした時、これからどうしようか?特に何もすることがなく、したいこともないのでとりあえず継続雇用で働き続けようというのが一般的だったのではないでしょうか。
私の場合も同様の生活を送ってきましたが、若干異なる点は、共働きだったため子どもを保育園に入園させて生活してきた中で、同じ境遇の同世代の親同士の交流があったことです。「保育園=共働きの親」という共通の家庭環境でしたので、親同士が親密になっていくことはごく自然のことでした。
その中で、6家族の仲良しグループが結成され、定期的な交流がはじまりました。
春はハイキングや潮干狩り、夏はキャンプや海水浴、秋は紅葉狩りやトレッキング、冬はスキーやXマスパーティーなど四季を通じての遊び仲間です。
異業種の職場情報や日常生活の中に遊び心を入れた生き方は、今までの自分になかったものでした。

 

プロセスと発見の喜び

私はこのグループの交流からこれからの生き方を考える大きなヒントを得ました。
それは、毎日の生活は単純ですが、考え方や見方によって楽しみ方が無限にひろがっていくことでした。


例えば、「料理をつくること」です。
共働きの家庭では当然ながらうまい下手に関わらず夫が料理をつくることは当たり前のことです。メンバーが集まった時は、男性陣が全ての食事のしたくをします。女性陣はおしゃべりに夢中になるといった具合です。「今日は鍋奉行」といったその時だけの調理人ではありません。男衆は、調理器具や調味料の使い方ひとつとっても慣れています。
丸の魚から刺身や煮魚用の切り身をさばく、鶏がらからスープをつくる、キャンプで天ぷらを揚げる時、山に入って具材を調達するといった具合で本格的な料理をつくっていきます。
ちょっと大げさな例でしたが、「ひとつの料理を完成させていく過程をいかに楽しむか」ということです。料理の出来栄えは二の次でしたが、もちろんメンバーの中には誰一人プロの料理人はいません。

この料理のことは生活を楽しむひとつのヒントです。
私の趣味は登山です。登山口までのアクセス、登山ルート、タイムスケジュールや山小屋情報、装備、高山植物の種類などのプランは、実際に行った時の時間より何倍もの時間を費やします。その時間が何よりも楽しく喜びを感じるものです。

 

地図とコンパス

 

あるサイトに「退職後10個の趣味を持て」と書かれていました。
趣味を持つことは、退職後の人生を楽しむための大きな手段です。たとえ一つの趣味であっても、完成や達成させていく過程が充実しているのであれば喜びにつながります。
仕事の場合、プロセスも重要視されますが最終的には結果が求められます。
登山の場合、結果としての登頂の喜びはありますが、そのための準備や登頂までの景色、動植物の観察を楽しみ、更に自分の体力度合いを測りながら挑戦する喜びの方が大きいと思います。

 

サラリーマンの飲み会 

仕事が終わって上司や同僚たちと飲む機会は、どのサラリーマンでもあると思います。
その時、どんな話が話題になりますか。多分、仕事の話がほとんどでしょう


私は、お酒が苦手です。でも誘われればあまり飲めなくても同席していました。もちろんその席では、仕事の話に夢中になって過ごしましたが、ある時から何か物足りなくなってきました。
お酒が飲めないから長時間付き合うことが苦痛ということでなく、どうして仕事の話だけなんだろうか。もっと楽しい話はできないのだろうか。趣味の話や家庭のこと、旅行のことなど話題を変えようと投げかけましたが、すぐに話が行き詰まり長続きしませんでした。話題はまた仕事の話に戻るといった具合です。
こうしたサラリーマンの飲み会を批判するつもりはありません。ただ、自分の中では、ちょっと大げさな言い方ですが「仕事だけで人生を終わらせたくない」という想いはありました。

 

義父の生き方に学ぶこと

私のカミサンの両親は、小さな食堂を営む自営業でした。近所の勤め人や常連さんをお客に細々とした商売を長年続けてきました。
利益を追求する商売ではなく、逆に自分より地域や周りの住民のためにという心意気を持った方でしたので、毎日の生活は楽ではありませんでした。
戦時中はソ連と満州の国境警備に当たり、シベリアで四年の抑留生活を過ごし、過酷な船中戦後の日々を生き抜いてきた人でした。
そんな義父は、60代で油絵、70代で書、80代で短歌の趣味を持ち、77歳の喜寿にはなんと地元の百貨店で個展を開催しました。
特に書は、通信教育だけで自宅で学び、教授の免許を取得したほどの腕前です。
今年94歳になり、足腰は弱り、日常の生活に不便をきたすようになりましたが、頭は冴えわたり、今でも挿絵を入れた短歌に夢中になっています。

人生それぞれです。けっして裕福な生活をしてきたわけでもなく、ましてや年金や貯金も充分にあるわけでもなく、高額医療や介護のお世話になっているわけでもありません。充実した日々を過ごしている義父を見る限り「人生いかに気持ちの持ち方ひとつ」ということを教えられます。
よく60代でも「私はもう歳だから」とか「年金生活者だから」なんて口にする方がいます。たいへん残念な言い方だと思います。
自分で自分の人生をそのように決めつけてしまうことは、希望や展望を自ら断ち切ってしまうように思います。

 

作品集書

 

夫婦共通の趣味

私たちは、子育てが終わった40代半ば頃から、二人して旅行に出かける機会が増えました。どの家庭でも多分同じような傾向だったと思います。
観光地や温泉、おいしい郷土料理を楽しむといったようなごく普通の旅行です。
ある時、夏休みを利用して黒部立山アルペンルート2泊3日の旅行をしました。
ご存じのとおり始発の扇沢からトロリーバスやケーブルカーを乗り継ぎ、室堂という高所まで連れて行ってくれるといった楽ちん旅行です。この時、室堂から見た立山の雄姿に感動!山への想いにつながりました。
今までも近場の奥武蔵の山々にハイキング程度で楽しんできた伏線はありましたが、それ以降、二人の旅行はすべて山行になり10年を超える歳月が流れました。

 

槍ヶ岳1