日本百名山を振り返って (4)

薩摩半島の最南端「開聞岳」

平和を考えさせられた名山

 

深田久弥氏は「日本百名山」を3つの基準で選定しています。又、附加的条件として、「大よそ1500m以上という線を引いた」と後記で語っていました。

「山高きをもって尊しとせずだが、ある程度の高さがなくては、私の指す山のカテゴリーには入らない」

こうした条件で百座を選定されたわけですが、実は2座だけ1000m以下の山を選んでいます。
その山は、関東の筑波山(876m)、鹿児島の開聞岳(924m)です。
なぜこの二つの山を選んだのか?という問いに対して、後記には「その山の頁に書いてある」とだけ記されていました。

この二つの山の頁を繰り返し読んでみました。確かに山岳信仰の山として昔から尊ばれてきた山であること、山容も円錐形で遠くから眺めても立派な独立峰としての存在感があります。氏が言うように、品格、歴史、個性という3つの基準をクリアしていると思います。
しかし、それに類する山は全国にたくさんあります。著書の中でも選定に漏れたいくつかの山を挙げていますが、見方によっては個人差があると思います。この点は、選定した人の想いがあるのだろうと。

深田氏没後、多くの登山者や山岳専門誌などで「なぜこの二つの山が選ばれたのか?」と、話題になったことは言うまでもありません。その頁を読んでもまだ納得のいかない人は多くいたと思います。

私も主観で言えば、筑波山は当然選定に値する山として文句はありません。関東平野から望むその山容を見れば、多分誰もが納得する山ではないかと思います。背が低いといっても、平地からそのまま立ち上がる全容を見れば、その大きさと見上げる高さに圧倒されます。歴史においても言うまでもないと思います。

では、開聞岳はどうか?
関東に住んでいる私にとって、筑波山はちょっと小高い山やビルからいつでも眺められる山で親しみがありますが、開聞岳は見たことがありません。それも鹿児島最南端にある山ですから遠い遠い存在でした。

 

今年5月下旬、ミヤマキリシマが咲く頃、鹿児島を訪れました。
市内でレンタカーを借りて薩摩半島最南端の開聞岳を目指しました。指宿スカイラインを走り、池田湖を望む先に円錐形の山が見えました。これが開聞岳か。

 

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深田氏が実際に開聞川尻部落(現在は町)から見たその全容を望んでみました。なるほど立派な姿だと思いました。

 

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開聞岳は標高が低いといっても、ほぼ海岸から近い場所からの登山ですから往復5時間のコースタイムです。
五合目まで登った時、小学生の団体に遭遇しました。訊けば鹿児島市内の小学6年生130人の遠足登山でした。その最後尾が五合目辺りで、先頭はすでに頂上に達しているようでした。
狭い登山道では追い越すことはできません。一緒に登るうちに親しくなり、岩場の危険な箇所では声をかけ皆で励まし合いながら頂を目指しました。

 

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頂上に立つと360度の視界が目に飛び込んできました。
南方は青い大きな海原、東方には大隅半島と錦江湾、眼下には枕崎の海岸線がくっきり見えました。
狭い頂上で小学生たちと共にお弁当を広げ、和やかで微笑ましいひと時を過ごすことができました。

 

二度と戦争を起こしてはならない!

 

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下山後2日間、鹿児島市内周辺を観光しました。この時間を利用して知覧の「特攻平和会館」を訪れました。
市内から車で約1時間、静かな山間部の中にその建物がありました。途中きれいに整備された道路脇に延々と続く石灯籠がとても印象的でした。

館内には多くの特攻戦士たちの親族に宛てたハガキや手紙が展示されていました。名前、年齢、出身地が明記され、ほとんどが20歳前後の若者たちでした。父、母に宛てた最期の言葉を読むにつれ、私はその場に立ち尽くし動くことさえできないほど涙が溢れ出てきました。
そんないたたまれない思いを引きずりながら会館を出た時、歌碑が刻み込まれた大きな石碑が建っていました。
そこに開聞という字を目にしました。

「帰るなき機をあやつりて征きしはや 開聞よ 母よ さらばさらばと」

この歌碑は、もう二度と帰ることのないゼロ戦を操縦して知覧を飛び立てば、すぐ開聞岳の上空に達する。この時、機の翼を何度も振って「さようなら」というメッセージを送ったそうです。

2日前、私は初夏の暖かい日差しの中、この開聞岳の頂上で空を見上げながら子どもたちと一緒に穏やかな時を過ごしました。あの上空を戦地に向けて飛び去っていった若者たちのことを思い浮かべると胸が詰まる思いでした。

時はロシアによるウクライナ侵攻が激化していました。開聞岳登山を振り返り平和というものがどれだけ素晴らしいものか、どれだけ心温まるものなのか、改めて感じるものがありました。

 

著書「日本百名山 開聞岳」の頁に深田氏の戦争の話が少し触れられていました。

「終戦後、中国で俘虜生活を送った私が、上海から帰還した時、船が日本に近づいて、夜のあけぎわにまず眼にしたのがこの開聞岳であった。その整った美しい山容を見て、とうとう内地へ戻ってきたという万感のこみあげてきたのを忘れない」

深田氏が開聞岳に登ったのは、「戦前の12月であった」と記されていました。
「日本百名山」の執筆が本格的に行われたのが昭和30年代のようです。(昭和39年刊行) 戦前から戦後にかけて日本全国の多くの山に登り、百名山の選定・発表を温め続けていたといわれています。

私の想像ですが、深田氏はこの開聞岳を推した理由は、「山の歴史」を最も重視したのではないかと推測しました。それは他の山にない ”戦争という歴史” を重んじ、「この開聞岳が戦地に向かった若者たちを最後に見送った山なんだ」ということを内包していたのではないかと思いました。
二度とこのような戦争を起こしてはならない。その想いは、「名山としてあげるのに私は躊躇しない」という言葉に託されていたのではないかと。

ブログ:開聞岳

 

日本百名山を振り返り、登山をとおして様々なことを学び、教えてもらいました。
それは、全国至る所に足を運び、その地方の歴史や文化に触れたり、その土地ならではの郷土料理を知ることができました。又、地元の人との出会いや山で知り合った登山者との語らいから得ることもたくさんありました。
今思えば、これらの体験は百名山あってのものだったんだと思います。

そして、登山は何よりも「平和」であるからこそ楽しめるものだということも。

 

「日本百名山を振り返って」 おわり

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