メディアの報道とその責任
読者や社会への影響を考える
2/1日、石原慎太郎元東京都知事が亡くなりました。
この訃報に関して新聞をはじめとするテレビやネットなど各種メディアの報道が多数ありました。
各新聞社の記事や「読者の声」欄にも生前の石原氏の言動について様々な意見・声が寄せられていました。
今私は「東京新聞」を購読しています。
以前は、朝日新聞を購読していました。一定期間の契約で読み替えしたりしています。又、時々図書館に行って他紙の記事・報道に目を通したりしています。
そんな新聞記事の中で好んで読む欄があります。それは「読者の声」です。
東京新聞では「発言、読者とともに」というタイトルでいつも5面に掲載されています。
こうした読者の声というのは、その時々の世情を反映しての話題が多いです。何より忌憚のない意見や忖度しない声などストレートだからこそ、「本当にそうだよな」「そのとおりだ」と同意、納得したりします。
今月に入り石原氏の訃報に関連しての読者の声が掲載されていました。これらの中には、各メディア報道に対しての意見・批判も含まれていました。
「功績を持ち上げ、差別発言を石原節で済ませる始末」
「多大な影響を与える立場でありながら、その差別意識をまき散らしていたことは、〇〇節で済まされることなのでしょうか?」
すでに故人となった方ですので、過去の言動については控えたいと思いますが、やはり差別的な発言や暴言が多々あり顔をしかめてしまうことが何度かありました。
「〇〇節?」
日本独特の言い回しの言葉なのでしょうか。
こうした言い方は、私たちの身の回りの中でもよく使われたりしています。
例えば、職場の上司に対してもありました。どちらかと言うとあまり歓迎されない言動に対してであったり、”いつもの調子” 的な総称として使われたりします。
職場の飲み会で上司のあいさつというより高圧的な言い方で、時にはパワハラ・セクハラ的な文言が飛び出すことも多々ありました。そんな時、「また〇〇節だよ、いつもの調子が始まった」と同僚たちと下を向き小声で話したりしたことがありました。
東京新聞には毎日「本音のコラム」欄が掲載されています。
これは各界の著名人が、その時々の社会の動きに関連して忌憚なく本音を言う評論です。
2/9日新聞のこの欄では石原慎太郎氏について、斎藤美奈子氏(文芸評論家)の「無責任な追悼」と題するコラムが掲載されていました。
石原慎太郎氏は暴言の多い人だった。「文明がもたらしたもっとも有害なものはババア」「三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している」。暴言の多くは、女性、外国人、障害者、性的マイノリティーなどに対する差別発言だったが、彼は役職を追われることも、メディアから干されることもなかった。そんな「特別扱い」が彼を増長させたのではなかったか。・・・。
各紙の追悼文は彼の差別発言を「石原節」と称して容認した。2日の本誌(東京新聞)「筆洗」は「その人はやはりまぶしい太陽だった」と書いた。こうして彼は許されていく。負の歴史と向き合わず、自らの責任も問わない報道って何?
東京新聞 2/9付「本音のコラム」より
※東京新聞の「筆洗(ひっせん)」は朝刊一面に掲載されているコラム。朝日新聞でいえば「天声人語」と同じような評論欄。
この斎藤美奈子氏のコラムを読んだ時に驚いたのは、同紙の「筆洗」を批判した文がこの「本音のコラム」に掲載されたことでした。普通の一般紙ではあまり考えられないことですが、批判すべき事柄であれば同じ新聞紙面上でも論評し合うこともあっていいと思いました。
片や新聞社内の記者や論説委員、片や外部評論家の論評。
これには後日談がありました。
それは、2/13付の編集局長名で「新聞を編む」というコラム欄に掲載されていたものです。
「節」。最新版の三省堂国語辞典を引くと、さまざまな意味の末尾に「その人に独特の話術」とあります。この意味を載せていない辞典もあります。
「石原節」という語の用い方は俗用であり、メディアが中心となって世の中に広めてきた表現です。本紙は過去に何度も「石原節」の表現を使っています。
言うまでもありませんが、差別発言は、話術とはまったく異なる範ちゅうです。差別発言を「石原節」として報じることは、読者の指摘通り「この人だから仕方ない」といった具合に、発言を容認することにつながります。
言葉の作用に敏感であるべき新聞が、率先して差別発言を容認するような表現を繰り返してきたこと、そのことが、政治家の暴言や失言を容認する風潮を生み出していったこと。今、この責任を痛感しています。
新聞記事は歴史の記録であり、後世にまで残ります。読者の批判を受け止め、石原氏の差別発言を考える特集を今後掲載します。
東京新聞 2/13付「新聞を編む」より抜粋
さまざまな読者の声や斎藤美奈子氏の指摘を受け、このような編集局長名で謝罪文ともいえる内容がはっきりと紙面上に掲載されたことに驚きました。
報道や論評上で何らかの誤りがあれば、素直に非を認めることも「その責任」だと改めて感じます。
他紙も含め「メディアはこうあってほしい」と願うものです。
今回の一連の「石原節」に関しての報道について、3年前にブログアップした書籍「新聞記者」を思い出しました。
この著者は新聞記者の望月衣塑子さんです。書籍発売後に映画化され、最近ではTVドラマ化されました。
望月さんは東京新聞社会部の記者です。同じ「東京新聞」なんですね。
ブログ:書籍「新聞記者」
2/15日付「東京新聞」 ”石原慎太郎氏の差別発言 いま再び考える”
前述した上司の「〇〇節」についても、実は後日談があります。
会社の管理者集会の後は決まって地区ごとの飲み会がありました。この席でいつものように上司の「〇〇節」が始まりました。
ある時、新しく女性の管理職に就いた人の歓迎を含めての集まりの席で、その上司は女性蔑視ともいえるパワハラ・セクハラ発言を繰り返しました。これには周りの同僚たちも憤慨する顔をしていましたが、誰一人注意・進言する言葉を発しませんでした。
そこで私が「今の発言は言い過ぎじゃないですか、おかしいですよ。撤回して謝るべきでしょ」と注意したところ、上司は顔を真っ赤にして怒り狂ったように今度は私にその矛先を向けてきました。
その後、人事部に事の成り行きを報告したところ、「あの人はいろいろと問題発言がある人なんでね~」という返答だけで何ら処分されずに2年後定年退職し、継続再雇用になりました。
どんな会社組織においても大なり小なりこうした問題があると思います。そして問題となる言動は、「〇〇節」として片づけられ、「この人だから仕方ない」といった具合に笑ってごまかし、容認されてしまう風潮があるのではないでしょうか。
こうしたことが慢性化し、更に多少?のことが当たり前のようになり、次第に常識化してしまう恐れがあります。
こうしたことも「会社の常識は社会の非常識」だということがわからなくなってしまうことにつながります。
このように会社組織においても容認されてしまう問題がありますが、メディアの世界では広範囲にその影響を及ぼすことにつながります。
「メディアが中心となって世の中に広めてきた表現」を糺すこともなく使い続け、更に私たちも同調するがごとく使ってきたことに改めて反省しなければならないという思いです。
「読者の声」、普段私たちが何気なく読む内容には、損得勘定がない、利害関係がない、そして忖度もない、的を得た鋭い意見・考えがあります。
そんな「声」に時として教えられ学ぶものがあります。
先日、東京新聞の更新に担当者が来ました。
引き続き購読することを伝え契約書にサインしました。
我が家も以前は朝日新聞でしたが、今は中日新聞です。
東京新聞は中日新聞東京本社が発行する日刊紙なんですね。
滋賀県で看護師による「呼吸器事件」の再審無罪に至る取材を続けて来たのが
中日新聞だったと思います。
当初、一地方新聞だと思っていましたが、これを知って見方が変わりました。
新聞の使命は「事実を正確に」報道することで、忖度することなく知らせる
ことではないでしょうか。 その上で判断するのは読者ですよね。
これから始まる子供接種も、批判を恐れずに事実を知らせている医師や首長
のニュースを報道してほしいものです。
老いぼれ様
はじめまして
コメントありがとうございます。
>看護師による「呼吸器事件」の再審無罪に至る取材を続けてきた
この事件については全国的に報じられ注目していました。まだ記憶に新しいです。
中日新聞が取材を続けていたんですね。
>新聞の使命は「事実を正確に」報道すること、忖度することなく知らせること
全く同感です。
新聞の報道や論説は、時として私見や利害関係などに惑わされて「事実が歪曲化」されたりします。又、誘導的な意見で読者をその方向に向けさせていくこともあります。
こうしたことは新聞という性質上、一方的な主張・意見のため、そこには議論がありません。
「読者の声」は、こうした面をフォローする役割があると思います。読者の様々な角度からの意見や考えを紙面上に掲載することで「議論」になると思います。
そうした反対意見や批判的な声を積極的に掲載することも新聞としての役割のような気がします。
私たち国民が知らない情報を正確に伝え、権力やスポンサーに忖度することのない報道を願うものです。
「その上で判断するのは読者」、私もそう思います。
ありがとうございました。
こんにちは。
管理人様の「上司の「〇〇節」について」の件、面白く拝見しました。
当方も現役時代、色々人間関係の悩みを抱えていた時期がありました。
当時役員待遇で、70歳まで働こうかと思った時期もありましたが、結局会社側から申し入れが
あり、65歳での退職を選びました。
世間には様々な性格の人間がいます。
その結果、仕事の上で十分なパフォーマンスが発揮できないとなれば、本人はもちろん企業にと
っても残念なことです。
他人(の性格)は変わらない。
自分(の性格)は変わることができる。
最後の数年はこの言葉を噛みしめて、サラリーマン人生を全うすることができました。
次に、石原慎太郎なる人物。
氏の著作「弟」を読んだときは、それなりに公平な視点に立って考えることのできる人物のよう
に感じられたものですが、自分自身を常に(弟よりも)一段高い位置に置いての語り口があちこ
ちに感じられたという印象が残りました。
石原慎太郎の暴言はある意味、その明快さが痛快なところもあれば、当然不快に思う層もあるわ
けで、自身の発言がどのように世間に影響を及ぼすかを考えてのものなのか否か、それはよくわ
かりません。
しかし、このような人間はスケールの違いはあれど世間に珍しくないでしょう。
石原都知事の時代、その部下を務められた方々には本当にご苦労様と申し上げたい気分です。
組織の中ではなかなか難しいことですが、それが付き合う必要のない相手であれば無視するに限
ります。
そのためには経済的に自立できるだけの体力があることが前提ですが、人生の最初の目標はその
あたりかなと思いながら過ごしております。
Zampanoさん
たいへんお久しぶりです。
深く考えさせられるコメントありがとうございます。
>他人(の性格)は変わらない。自分(の性格)は変わることができる。
Zampanoさんと同じように私も「最後の数年はこの言葉を噛みしめて」という思いがありました。特に50代に入ってからは自分というものを冷静に見ることができるようになり、振り返って反省する部分も多々ありました。
これも歳を重ねてきた妙というものなのでしょうか。
今、社会の様々な出来事に対して関心を抱くようになりました。そうした中でやっぱりこれはおかしいと思うことについては、ブログを通して自分の考えや意見を述べるようにしています。
これもまた私の生き方、過ごし方なのかもしれません。
コメントありがとうございました。