60歳からの現実(リアル) (38)

リタイア後の「時間」

様々な情報や手記から学ぶもの

 

退職後の生き方は人によって様々です。

今まで働き続けてきた頃と比較すれば、最も大きな違いは「時間がある」ことではないでしょうか。
そんな自分にとっての時間は、誰にも邪魔されず ”自身のために使える時” として考えれば、これほど有意義なものはありません。
このブログを立ち上げたのも「時間」が得られたことからだと思っています。

以前、ブログにも記してきましたが、リタイア後は親の介護をはじめ、自身の趣味を広げ、更には家族(妻や子ども)、友人たちとの親交を深めるものにも、この「時間」を活用してきました。
と同時に、自分の思考・行動以外から影響を与えられるものが数多くありました。どちらかと言うと、この「時間」には他者から教えられる、気づかされることの方が多かったのではないかと思うくらいです。
自分の考える範疇、行動する範囲から飛び越えて、「こんな考え方や行動があったのか!」と驚きを覚えることがありました。
それらは決して大きなものでも、偉大なものではないんです。日常生活の中のほんのささやかなことであったり、ちょっと見方を変えただけで気づきがあったりするものです。

例えば、趣味の登山一つとっても、”山に登ることは単にピークハントするものではない” ということを多くの登山者から学びました。頂に立つことはあくまでも結果なんですね。登山口から頂上に至るルートを考え、その途中途中の景色や高山植物、鳥の姿・声を楽しむ過程こそ登山の面白さを教えられました。

くるま旅も同様でした。
目的地まで車を走らせ、その周辺を観光するだけがくるま旅でないことを気づかされました。
途中途中の見知らぬその土地の光景や地域の人たちとの出会い、その土地ならではのグルメの発見など数多くありました。

持久系スポーツもしかり。
60代になって始めたスポーツの世界では、年齢に関係なく多くのシニア世代の人たちが楽しんでいました。
「自分はもう歳だから」ではなく、歳相応の楽しみ方やチャレンジのしかたを学びました。登山やくるま旅と同じように、結果ではなく ”その過程をどのように楽しむか” が共通していました。

 

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2年前、ご近所に住む知人から読んで見ませんかと「同人誌」を一冊いただきました。
この同人誌は、その知人と有志の人たちが立ち上げたもので、年一回発行全国に数十人の会員・読者がいました。
知人曰く、「規模は小さいものです。皆さん自由に好きなことを書かれていますよ」と渡されました。
ページをめくってみると、エッセイ・自分史・随筆・読書感想・趣味・散文など広い範囲で投稿されていました。
この同人誌の題名は「読書と自由時間」。まさに自由な時間を楽しむものなんだろうと思いました。

私はこうした同人誌なるものを初めて手にしました。読んでみると実に面白く楽しい冊子だという実感でした。
それは、今まで自分の生きてきた範疇にない違った世界が広がっていたことです。又、それらはすべて個人の文ということから、生々しいリアル性に富んだものだったことからです。
これをキッカケに昨年この同人誌の会に入会しました。会名は「本の仕事と読む人の会」

先日、知人から今年発行の同人誌が郵送されてきました。
150ページ弱の小冊子を手に取り目次を見ると25人ほどの方の手記が寄稿されていました。

今回の同人誌の中に興味深く考えさせられる一文が掲載されていました。
それは、W氏が書かれた「私たちの追分」という随筆でした。

「追分」というのは、元は「牛馬を追い、分ける場所」を意味しましたが、そこから「街道の分岐点」を意味するようになり、全国にこの地名があります。・・・。
私たちは今まさに「追分」に立たされているという実感を痛切に感じています。
冒頭の一文より

そしてこの後の文は、「教育の追分」「民主主義の追分」の2編に構成されていました。

W氏は長年教師として教育現場にたずさわってきて、現在は退職された方のようです。
今まで培ってきた本来の教育のあり方と方向性が、今大きく変化し分岐点(「追分」)に差し掛かっていることを指摘するもので、現在の文部科学省の教育方針に一石を投じるものでした。
それは「GIGAスクール構想」を打ち出し、次世代に向けた計画として、ICT(情報通信技術)を駆使して全ての子どもたちが「個別最適化された学びの場を作る」という構想に対しての反論でした。

ここでは文中に書かれたその具体的な文科省の構想内容は省きますが、W氏はこの構想に対して、このように述べていました。

ここで目的としてあげられている「個別最適化された学びの場を作る」というのは決して一人ひとりを大事にして、全員の学力を向上させるというものではない・・・。
また、特定の知識や技能を身につけたりする学習になり、提供されたものをみんなで考えあって相互に学びあう、課題を批判的にとらえて自分の思考を鍛えるという学習の本質が抜け落ちてしまいます。
文中より

私は長年小売業にたずさわってきました。「教育」という世界からはまったくかけ離れた仕事に身を投じてきたことから、特に関心を持つことさえありませんでした。
しかし、W氏の手記を読むと何か共感する想いがありました。それは、「課題を批判的にとらえて自分の思考を鍛えるという学習の本質」という一文でした。
教育の場以外でもその他多くの働く現場においてもこうした捉え方は共通するものがあると思います。
学ぶということはそれらを受け入れると同時に自分自身の考えをまとめていく(鍛える)ことが最も大切なことではないかと。

W氏は、この手記の続きに「教育が教育でなくなり、学校が学校でなくなる」ことについて指摘していました。

この教育の行き着く先を、新自由主義改革の先鋒竹中平蔵氏は近著『ポストコロナの「日本改造計画」』で明確に語っています。

「授業にしても、定型化できるものは、全部動画配信すれば、教師は同じ授業を、いろいろな生徒に何度もする必要がなくなります」
「授業の大半をオンラインで行い、生徒を束ねる教師が数人いればいい」

「教育基本法」の改定でも変えることができなかった教育の目的は、「人格の完成」です。「ヒト」として生まれ、より「人間」的に成長発達していくのは人格と人格の触れ合い、また、「対面と対話」によって成立します。
教育のICT化はこの教育の基本的条理「人格形成」そのものを否定し、まさに教育が教育でなくなり、学校が学校でなくなることです。
文中より

コメントは差し控えますが、まさにその通りだなと感嘆しました。

今まで「教育」というものを考えることさえありませんでした。ただ最近のニュースなどで「子どもの貧困や孤立」「親の虐待や学校でのいじめ問題」など考えさせられる場面が多々ありました。
こうした底辺には、やはり人間として ”人格と人格の触れ合い” ”対面と対話” の大切さがあるのではないかと思います。

このように今までそれほど感じていなかったものが、このW氏の手記によって教育を含むあらゆる現代社会の問題点を考えさせられ教えられるものがありました。

 

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デジタル・トランスフォーメーション(DX)への時代と新聞発行部数の変化

 

今の社会はなんでも効率化、合理化が優先される時代になってきています。また、情報技術(IT)の進化によって更に急速化しています。

こうした中、情報という分野に関連して新聞の発行部数が激減してきています。
調べてみると、2000年4740万部、2015年4069万部、2020年3245万部だそうです。20年前に比べ1500万部も減っていることがわかります。
その要因はいろいろあると思いますが、やはりIT化によるものが大きいのではないかと。今や「紙」で読むより「画面」で情報を得る時代になってきています。
新聞がなくてもあらゆる世界中の情報が瞬時で手に入れることができるのですから、とても便利で効率的な社会になったといえるのでしょう。

しかし、一方ではたして本当にそれでいいのか?という疑問もあります。
というのも、ネット情報は個人の興味・関心のある分野しか目にしない場合がほとんどです。これに対して新聞は、自分が全く興味・関心のない情報も一覧でき、更にその分野の専門家から教えられるものがあります。

 

サイコロは6面あります。
いつも一面だけを見ているとその側面や裏側のことは全くわかりません。物事を思考することは、一面だけに捉われずあらゆる角度の材料から判断することが大切だと思います。
一面的な見方はそれが全て正しいという錯覚を生み、他者(他の考え)を受け入れないという思考になってしまう恐れがあると思います。

 

今回、同人誌の中で「教育」という現場の実態を目にする機会がありました。
何気なく読んだ個人の随筆から、「そういう見方・考え方があるんだ」ということを教えられました。普段あまり考えもしない分野もこうして ”生の手記=リアル” だからこそ説得力があったのかもしれません。
そして、何よりも今まさに「追分」(分岐)にきている実態を知ることができました。これも一面だけを見ていたのでは分からないことだったのでしょう。

60歳代、酸いも辛いも経験してきた世代です。
だからといって今までの経験から何でも正しい判断ができるとは思いません。個人が生きて来た道は、ほんの細い一本の線を歩んできただけですから。無数にある他の道のことはわからないからです。
でも知ろうと思えば知ることができるし、学習することもできると思います。一面だけにこだわらず側面や裏側のことを知ることでまた違った世界が広がるように思います。

2 thoughts on “60歳からの現実(リアル) (38)

  1. この3月末で59歳で退職してちょうど10年になります。
    在職中も仕事以外の多様な人たちと関わりながら生きてきたので、それぞれの人たちの多様な考
    え方に触れてこられて良かったなと思っています。
    退職してからは日常生活では緩い会を作り30人ほどが集まり、その人たちが持ついろんな知
    識、特技や得意なことを発揮してもらっています。今までしたこともないことや考えたこともな
    いことに触れられて日々新たな気持ちになることも多いです。運動にしても学習にしても。
    さらに私は旅にはよく出かけるのですが、旅先で本当にいろいろな人と会います。
    車中泊では、夕方にずいぶん話したのに寝ている間にいろんな疑問が湧き出て、朝起きてから訪
    ねてまたずいぶん話したことや登山中たまたま行動を共にした人と2日後に再会して誘われて車
    の間にテーブルと椅子を出し、午後から夜まで何時間も延々と話し続けて心が浄化されたような
    気持になったこともあります。
    現在、何気なく過ごすだけではすーさんのおっしゃる一面の情報しか入ってこないと思います。
    ネットだけではなく自分で努力とお金を出さなければ多面的な情報、正しい情報は以前よりも入
    ってこなくなっていると感じています。
    若者たちにとって自分にとって気持ちがいい、気楽な情報に接しているのがこの大変な時代には
    唯一の逃げ場なのかもしれませんね。
    そのように行動することが明日の自分たちの将来が危うくするかもしれないのに。

    1. 槌が崎さん

      退職されて10年になるんですね。
      その間、いろいろな分野で多様な人たちとの触れ合い関わりがあって、今まで経験したことのない新鮮な思い、浄化された気持ちになられて豊かな人生をお送りになっている様子がうかがえます。

      槌が崎さんがおっしゃるように、「多様な人たちとの関わり、多様な考え方」に触れることは、この年代になってとても貴重なことだと私も思います。
      長年生きてきたんだから、今までそうした場面や機会があったんじゃないか?と思われがちですが、実はそうじゃないんですよね。
      今まで仕事と家庭を通じての社会との関わりを持ち、それ自体有意義なことだったと思いますが、一方で、その他の世界を見聞する機会は残念ながら少なかったように思います。

      退職後、私たちには有効な「時間」がありますよね。
      そんな時間を利用してもっといろいろな世界を見てみたいものです。そうした体験から今までと違った、”ものの見方や考え方” が養われていくように思えます。

      退職後によく言われる格言?「気力・体力・好奇心」の中で、歳を重ねても「好奇心」は持ち続けていきたいと思いますね。それが楽しく生きる原動力になっていくのではないかと思っています。

      コメントありがとうございました。

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