五輪とコロナの両立は難しい
「二兎追うものは・・・」
我が町川越市では、高齢者のコロナワクチン接種が5月10日から始まりました。
全国の自治体においては接種時期は異なるものの徐々に開始されています。
現在、国内の接種者は300万人ほどだそうです(5/6時点)内、医療従事者が284万人超(対象者の59%)
接種を受けた高齢者は24万人超のようで対象者全体(3600万人)の1%未満にとどまっているのが現状のようです。
又、海外との比較でみれば、日本の接種率が人口比で世界118位と大きく遅れている状況です。
こうした中で先日(5/8)、国内感染が7000人を超えて14道県で最多となったと報道がありました。
GWが終わった後の感染者数ですが、潜伏期間を考慮すればこの後とんでもない数値が飛び出す可能性があるのではないでしょうか。
そして緊急事態宣言の延長・・・。
東京五輪開催まで3ケ月を切りました。
このような状況の中で、「開催は本当に大丈夫なのか?」と感じている人は多いと思います。
もちろん無事に開催されることを願うばかりですが、五輪とコロナの両立はかなり厳しい状況にあるのではないでしょうか。
それは、開催国である日本のワクチン接種が遅れていることを考えれば、多くの人が不安を感じているからだと思います。
更に、逼迫する医療体制の中で、東京五輪のために専任の医療従事者(看護師500人、スポーツドクター200人)を要請し、30の指定病院に協力依頼している状況を鑑みて、やっぱり「何かおかしいな?」と思わざるをえません。
大会本部は、この専任医療従事者の派遣や指定病院の協力依頼は、コロナ禍になる前からの要請事項だったと話していますが、危機的な社会状況を考慮すれば、こうした判断は臨機応変に対応してもらいたいと思います。
何をおいても、”国民のいのちを守る” ことが最優先ではないでしょうか。
このことは、オリンピック精神に照らし合わせても当然考えるべきことだと思います。
又、最近では変異ウィルスの拡大やインド、ヨーロッパの一部、南米などで感染状況が深刻さを増しています。
こういう状況下で全世界のアスリートが同じ条件でフェアに競い合う大会になるのか?と思います。
やはり正常な社会状況の中で競い合うことが望まれるのではないかと。
ブログ:「五輪開催の是非」
先月、競泳の日本選手権大会が行われました。
この時、池江璃花子選手が出場しました。長い入院闘病生活から復帰して素晴らしい泳ぎを私たちに見せてくれました。
すでにリレー2種目の代表に内定している池江選手には、ぜひ東京五輪でその雄姿を見せてほしいと願うばかりですが・・・。
コロナ感染拡大に関連して、五輪に出場するアスリートのコメントはあまり聞かれません。まずは自分の体調管理と大会に臨むという一点に集中していると思います。
しかし、一方で感染拡大に伴い重傷者や死者が増えている現状、医療危機の実情、更にフェアな競技ということを考え、アスリートとして、又、一国民として開催是非についてどのように思っているのかと想像します。
聖火リレーが、3月下旬福島県から始まりました。
コロナ感染を考慮してコースを変更したり、無人の公園内を走ったり、路面にマーキングしてソーシャルディスタンスを施したり様々な工夫がありました。
そんなTV中継を観ていると、聖火ランナーや観客以外にちょっと違和感を感じる光景を目にしました。
それは、大音響を響かせたオリンピックスポンサー車両の大行列が続き、ようやくその車両のかげから聖火ランナーの姿を見た時でした。最後尾の車の後におまけのように映りました。
「えっ、これっていったい何なの?」と。主役は聖火ランナーじゃないの?、どうして延々と続く装飾されたトラックを見なきゃならないのと異様な光景でした。
オリンピックの開催に当たっては莫大な費用がかかることはわかります。そのために多くのスポンサーがついて資金面での調達がなされるのも理解できますが、見方によっては異常ともいえるもののように思えます。
日本の主要メディア(全国紙、TVなど)は、「オフィシャルパートナー」として東京五輪のスポンサーに加わっています。
パートナーとして当然東京五輪の宣伝や放送を推進するものですが、あまりにもそのことが過剰になれば、報道への歪みが生じてくるのではないでしょうか。
東京五輪を無事開催してほしいと願う国民は多くいると思います。一方、前述したようにコロナと五輪の両立は難しいと考えている国民もまたいるでしょう。
以前、NHKの聖火リレー中継が行われていた時、「オリンピック反対」などの声が入った直後から数十秒間音声が消されたことがあったようです。
NHKは「さまざまな状況に応じて判断した」と説明していますが、フェアな報道はもとより難しい面を露呈したように思います。
このような状況下で ”東京五輪の中止(延期)の考え” がタブー視されているように思えます。
身内だけや仲間内だけの雑談の中で五輪是非について話すことはあっても、ある程度社会的な場所や公的な場面で「是非を問う」行為はヤバイという雰囲気があるように感じます。
聖火リレーで盛り上がる中、「反対」という声は、周囲の人たちから眉をひそめられるものかもしれませんし、非国民的な感情を抱かせるものにつながるかもしれません。
なぜ反対なのか?その言葉の裏にある思いを尊重することは大事なことではないでしょうか。
コロナ感染拡大と対策を真剣に考え、開催の是非についてもっとオープンに議論すべきものだと思います。
話は若干逸れますが、先日槍ヶ岳で遭難事故がありました。
GWを利用して出かけた槍ヶ岳で3人の若者が全員命を落とした悲惨な事故でした。
山の遭難は毎年のように時期を問わず頻繁に起きています。その原因はいろいろありますが、特に ”パーティ登山の遭難” には共通したものがあるように思います。
それは集団行動(パーティ)では、なかなか自分の意見を言い出せない雰囲気というものがあります。
天候悪化によって途中で引き返すのか、それとも「大丈夫だ!」という強い声に押されてそのまま進んでしまう場合があります。
そこには様々な思いがあります。それは、「ここまで登ってきたんだから」という気持ちは共通するものの、「戻る」という行為は弱さや裏切りのような感じにもとれます。
一般的によく言われる登山用語?に「戻る勇気」という言葉があります。
これは簡単そうですが、実はものすごく難しい行動なんです。実際私も何度かこうした場面に遭遇したことがありました。
「戻って無事だったことが当たり前」のことですから、そのこと自体は何ら評価されません。もちろん評価されなくていいことなんですが、後で思えば「戻る判断」はやっぱり勇気がいることだと思いました。
話を「五輪開催の是非」に戻します。
この是非に関して、登山の「戻る勇気」と同じように考えること自体無理がありますが、ここはやはり冷静に判断しなければならないと思います。
そこには場面は違っても「いのちを守る」という行為として共通なものがあります。
開催に当たって今まで積み上げてきた労力や資金、そしてその高揚した期待感すべてが無になるわけですから、そう簡単に「戻れない」(中止、延期)ことも十分わかります。
大会責任者や関係者は、忖度や利害関係、損得勘定抜きでしっかり議論してほしいです。
現実直視し五輪に「ノー」
意見を、言葉を持ち、世界の現実を直視して他者を思える国であってほしい。香港や台湾、ミャンマー、チベット、ウィグルの問題で、各国の顔色ばかりをうかがって明言しないのは歯がゆい。
五輪でも「ノー」と言って、将来「あの時の判断で世界は救われた」と言われる国になってほしい。
東京新聞 5/8付 宮本亜門さんの記事
「二兎追うものは一兎をも得ず」
昔の人の戒めのことわざは、やはり深い意味があることを教えてくれます。