小説「妻の終活」 後編

先に逝く妻が遺すもの

死と向き合う終活、それは?・・・

 

この小説は、定年退職した後も嘱託社員として働き続ける70歳を前にした夫の一ノ瀬廉太郎と妻杏子の病状が悪化していく過程を交互に映し出しながら物語が進んでいきました。

俺はまだまだやれる。会社に必要な人材である。そうやって現役時代の価値観にしがみついた挙句に、残るものはなんだろう。
以前は思い浮かびもしなかった疑問が、このところ石灰化したように胸にこびりついている。
・・・過去に生きている。
リーダーシップを取って結果を出し、部下からも慕われていたかつての一ノ瀬廉太郎を捨てられない。
もう誰からも、そんな頑張りは求められていないというのに。

 

堺屋太一の「団塊の世代」、内館牧子の「終わった人」、垣谷美雨の「定年オヤジ改造計画」とほぼ同じような主人公の心情が描かれていました。

「団塊の世代」では、60歳定年を節目に今までの「人生の棚卸し」をしたか、しないかが物語の底辺にありました。
「終わった人」では、次へ(定年後の人生設計)の切り換えとチャレンジがテーマになっていました。
「定年オヤジ」では、フゲン病(夫源病)という社会問題を取り上げ、そこをどう乗り越えていくかが描かれていました。

 

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そして、「妻の終活」は?

前々回のブログ「あなたの人生、片づけます」では、主人公の片づけ屋・大庭十萬里(おおばとまり)が、依頼者の人に語る場面で、

「私は片づけに来たんではないんです。片づける方法をお教えするのが私の仕事です」と。

大庭十萬里が直接片づけ作業を行うことはなく、依頼者が進んで片づけを行う方向に仕向けていく「心の片づけ」でした。

そして、「妻の終活」では、物として遺すものではなく、形として遺すものでもない「心の遺し方」だったように思いました。

 

一ノ瀬廉太郎は、妻杏子のがん告知と余命のことを知らされ、長年勤めてきた会社を辞める決断シーンがありました。

「実はな、来月のお盆までに仕事を辞めることにしたんだ」
「はぁっ?」と、目を剥いたのは美智子(長女)だ。またもや「信じられない」と言いたげな顔をしている。
・・・。
「会社にはもう話をつけてある。今後は闘病する母さんの、サポートに回るつもりだ」
仕事に生きた男、一ノ瀬廉太郎は、そろそろお役御免でいいんじゃないだろうか。あとは二人の時間をいかに積み上げてゆくかだ。忙しくて後回しにしてきたことを、共にやってゆこうじゃないか。
・・・。
「そんな。お父さん、仕事が生き甲斐だったじゃないですか。あと5年は働くって言っていたのに、いいんですか?」
「ああ、もちろんだ。なにかやりたいことはないか。旅行でもするか?」
もっと喜んでくれるかと思ったのに、杏子は眉を八の字にして戸惑っている・・・。

「ねえお父さん、本気で言ってるの?」
美智子もまた、腑に落ちてはいないようだ。

一見この会話を見る限り、廉太郎の心変わりや妻へのいたわりが感じられますが、現実はそんな甘くないものだということが、杏子の眉を八の字、美智子の腑に落ちないことに現れていました。

このことは、その後の美智子の話しに全てありました。

「ふざけないでよ。サポート? この家の現状見てから言えば? 料理できない、掃除できない、洗濯すら回さない。それでなに、言うに事欠いて旅行って。今のうちにいい思い出作っとこうって? 理想ばかり追わないでよ。あんたが仕事辞めて家にいても、お母さんの負担が増えるだけ!」

娘の美智子が、普段「お父さん」と呼ぶに変わって「あんた」に変化したことからみても激怒した気持ちが伝わってきます。
まさに「本気で言ってるの?」が全てを物語っていました。

嘱託社員になる前は、管理職として結果を出し、会社に貢献し部下からも慕われてきた人であっても、いざ半径50m以内の生活圏の中では全く役に立たない人間であることが暴かれていきます。

 

「終活」とは?

 

終活って、考えてみると様々な形があるように思えます。
断捨離もその一つです。又、老後のこれからの生活をどう充実していくかを考え、行動に移していくこと。
更に、死を想定して自分の身の回りのことを準備すること。これには、病気になった時、介護状態になった時、遺産・遺品のこと、葬儀やお墓・戒名のことなど・・・。

これらのことは、ほとんどが自分たち自身(夫自身、妻自身、夫婦共通)のことです。
一般的に「終活」でまとめていく事や遺すモノは、「物・形」としての場合がほとんどですが・・・。

 

妻杏子のがんが治らなく、余命がどんどん短くなっていくある日、

「お父さん、ちょっと来てください」
汗を拭き、着替えを済ませた杏子が洗濯機の横に立ってにこにこと笑っている。・・・。

「洗濯のしかたを覚えましょうか」と、杏子は言った。
「洗濯?」
何を言い出したのかと訝しみ、廉太郎は眉を寄せる。
「そんなもの、洗濯機に入れてボタンを押すだけだろう」
「ええ、そうですけど、それだけでもないんです」
・・・
「たとえば、洗剤一つ取っても、これが弱アルカリ性、中性、蛍光剤入り・・・・」

「ややこしい!」
そんな細々したことを・・・
「なんだ、仕事を辞めたとたんにこの扱いか」
もはや稼ぎがないのだから、家のことを手伝えというわけだ。昨日は長年の労をねぎらってくれたというのに、見事な手のひら返しである。

「すみません。私がお父さんより長生きできるなら、こんなことをする必要はなかったんですけど」
はっと息を呑む音が聞こえた。自分の呼吸だと気づくのに、しばらくかかった。

「お父さんが一人になってからのことを考えると、心配でたまらないんです」
「いらん!」
反射的に叫んでいた。杏子はまだ生きているのに・・・・・いなくなった後のことなど考えたくはなかった。

「だけど今のままじゃ、この家はすっかりゴミ屋敷になってしまいますよ」
「なればいいじゃないか。そんな心配するくらいなら、自分の体を治せ!」
「治らないんですってば。何度言えば分かるんですか!」
杏子がついに語調を荒らげた・・・。

「私がいなくなったら、あなたの健康を守れるのはあなただけなんです・・・」

「お願いします。もうあまり、時間がないんです」
余命一年と宣告されてから、すでに三ヶ月が経っていた・・・。

 

洗濯のしかた、買い物や料理、掃除のしかた、衣類の整理、庭や花の手入れ・・・。
こうした一連の家事について残された時間の中で教え伝えていく杏子の姿がありました。

自分の余命が直前に迫っていても、「私がお父さんより長生きできるなら・・・」「私がいなくなったら・・・」、残される夫を気遣う杏子の気持ちに胸が締めつけられる思いでした。

”物や形として見えないモノを遺す” こと、それは、自分が先に逝っても、その後夫が元気で過ごすことができるように ”自立” を促す行為も大事な「終活」のひとつなんだと。

 

エンディングノート

 

「ねぇ、お父さん。一緒にこれを書きませんか」
杏子も座卓の向こう側に座り、ノートを二冊差し出してきた。
『「もしも」にそなえて 今日からはじまるエンディングノート』

「なんだこれは」
「美智子に頼んで買ってきてもらったんです。なにかあってからじゃ遅いから」
・・・
「なぜこんなものを」
「先生に言われたんです。この先握力が弱ってペンも持てなくなってくるから、大事なことは今のうちに書いておいたほうがいいって」
その言葉が、ぐさりと胸に突き刺さる。

 

カミサンは以前から「エンディングノートをつけてみない?」と話していました。
一般的にこうしたノートというのは、「死」を直前に控えてからではなく、歳を重ね老後生活の中で徐々に意識し用意していくものだと思います。
又、認知症になってからでは遅いということもあると思います。
母もまだ認知症になる前までは、自分のことをこうしたい、こうしてほしいと話していましたが、今ではそれも叶わずじまいになってしまいました。

カミサンには「まだいいんじゃないの?」と話していましたが、この小説を読んでから二人で近くの書店に買いに行きました。
何かキッカケがないとこうした準備は進んでいかないものかもしれません。

 

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幸せなことって?

 

働いていた頃、仕事に夢中になり家庭を顧みなかった男の人は多かったと思います。私もその一人です。
今や共働き世帯が増えている中、女性にとってもその気持ちはあると思います。

私たち夫婦は、長年共働きで過ごしてきた。
時々カミサンが、娘がまだ小さかった頃を思い出し「あの時、もっとこうしてあげれば良かった」と話すことがあります。
「忙しかったから・・・」「余裕がなかったから・・・」など誰にでもあったと思います。
子どものことに限らず、親の介護や死についても同じようなことがあるのではないでしょうか。

又、その時はそれほど感じなかったこと、思わなかったことが、後で思い返して「あの時は・・・」と振り返ることもあります。

 

砂糖の煮詰まる、甘く香ばしいにおいが漂ってきた。日曜の朝によく、杏子がホットケーキを焼いていたのを思い出す。
もう少し眠っていたいのに、階下から漂ってくる甘い香りと娘たちの笑い声。鬱陶しいなと布団を被り、二度寝したあのころの自分に、それが幸せだというものだと教えてやれたらいいのに。
貴重なものを、ずいぶん取りこぼしてここまで来てしまった。

 

幸せなことって・・・
私たちの日常生活の身近にあること、平穏な日々そのものが幸せなことなんだと改めて感じました。
半径50m以内に大事なことが詰まっている。大切なことがその所にあるということなんだと。

今まで家族のこと、親のこと、そして自分自身のことなど、犠牲にしてきてしまったことや取りこぼしてきてしまったことはたくさんあると思います。
そうした後悔を感じることと同時に ”そこに気が付く” ということがこれからの生き方に大切なことのように思います。

 

「妻の終活」を読んで感じたことを取りとめもなく前編・後編と長々と書いてきました。

物語の第7章、8章、そして終章の「懺悔」に至っては、涙しながら読み終えました。
このあたりについての詳細は述べずにおきます。
皆さんが実際に読んで感じることはそれぞれあると思いますので・・・。

 

「妻の終活」 おわり

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