介護の社会化を考える

個人、家の問題から社会化へ

 

先日、読売新聞(7/6日付)に山崎正和氏(劇作家)の「介護の社会化」と題する記事が掲載されていました。                                                       これからの介護のあり方については、個人によりいろいろな考え方、意見があると思います。
それは、現実に切実な問題として多くの方が抱えているからだと思います。
どのような方向性が良いのか、どうあるべきなのか、など答えはわかりません。ただ、核家族がすすむ現代社会の中、そして、実際に親の介護に携わっていく状況から「個人や家の中だけの問題から社会性を持った問題」として捉えていくべきだと思っていました。

そうしたことを考えている時、山崎氏の記事が目に留まりました。

 

介護の社会化1  介護の社会化2

 

高齢者の介護を社会化すること、平たくいえば介護の労苦から家族を解放すべしということである。たしかに介護の社会化は2000年に介護保険が導入された時のうたい文句だった。だが、この間寝たきり老人患者を受け入れてきた療養病床が削減され、その受け皿として在宅の介護や医療が強調されてきた。それがこれまで以上に家族に負担を強いている現実は否定できない。

老人の年齢や体調によって違いはあるが、多くは歩行や食事や排せつにも困難を抱え、しばしば認知症を伴うために感情の交流さえ齟齬を来することになる。家族は親や祖父母の排泄物の処理までしながら、それに感謝されるどころか不満や反抗の声に耐えて、24時間の緊張を強いられていることが多いと聞く。

新聞掲載「介護の社会化」より ※以下赤字は記事の引用

 

介護の労苦が家庭内弱者にしわ寄せ

 

私の友人に90歳を超える母親と一緒に暮らしている方がいます。
先日、久しぶりに会う機会があり、親の介護について話題になりました。
その友人は介護保険制度を利用していませんでした。利用していないというより制度そのものをよく理解していないようでした。家庭内で母親の世話をしているのは友人の奥さんです。一般的な家庭でよくある嫁と姑の関係です。最近、友人と奥さんとの夫婦間がうまくいっていない口ぶりで悩んでいました。奥さんが介護に疲れ、ご主人のフォローがないことへの不満のようでした。

私の義父は数年前、当時要介護2の義母(現在は特養入居)の世話をしていました。
介護保険制度を利用していたので訪問サービスや通所介護、ショートステイを受けていました。それでも日常生活の家事全般や義母の世話を強いられる毎日を過ごしていました。いわゆる「老老介護」の典型でした。

最大の問題は、しばしば介護の労苦が家庭内の弱者にしわ寄せされるという現実である。収入のない専業主婦、未婚で無職の女性、みずから老衰に苦しむ「老老介護」の配偶者といった人々が、周囲の暗黙の強制によって介護を押し付けられる例が多い。

又、未婚女性の例として                                                        青春のすべてを祖母の介護に捧げ、生涯自立と社会進出の機会を失った人がいると聞いた。私はこの女性の自己犠牲に賛美の念を惜しむものではないが、それでもやはり、奪われたものの大きさが、たんに一人の女性の権利を超えていることに、慄然とする。

 

在宅介護から介護施設入居へ・・・はたして姥捨て山か?

 

要支援、要介護のサービス内容をみても明らかなように、まだまだ「在宅介護」が多いことに気づきます。
これは政府が、高齢者の長期入院患者のベット数を確保するために在宅介護の拡充をすすめる方針に転換してきたことは周知のことです。
在宅介護の長所は、介護される本人が今まで暮らしてきた家で、なによりも家族と一緒に過ごすことができるということです。本人がそのことを望み、更に家族がしっかりと支えるという気持ちがあれば、大きな問題として捉えることはないでしょう。しかし、現実はそればかりではないというのが大半です。

2ケ月程前、私の母の要介護認定の件で実家に帰省する機会がありました。その時実兄とこれからの介護について話してみました。実兄は、農家の長女と結婚して婿として迎えられました。                                                      「お前の言うことはよくわかるよ。義父母の身体が不自由になり介護が必要になった時、施設への入居という方法もあるよな。しかし、現実には親戚関係や近所の目があり、病気以外で病院や施設に入るなんてとても考えられないよ」と言っていました。婿という立場もありますが、田舎の”習慣的な家体制”の中ではまだまだ受け入れられていないのが現実のようです。                                        更に義父はどう考えているの?と聞いてみたところ、「当然子どもに世話をしてもらい生涯自宅で過ごすという考えじゃないかな。お金は持っているけど施設に入るということ自体全く頭にないと思うよ」                              これがまさに現実だということでしょう。

介護の施設といえば高額な老人ホームを思い起こしますが、現在では一時金なしの低額施設が多く存在します。
ブログ「親の介護と自分たちの生き方」
そして、そのサービス内容といえば24時間見守り体制の中で清潔で快適な生活ができるようです。もちろん外出もでき、家族は自由に出入りもできます。

弱さをさらけ出すような介護を受けるにせよ、相手が職業的な専門家であれば、屈辱の感覚はたぶん激減するはずである。もちろん誰よりも助かるのは家庭内介護者であって、肉体的過労を免れるうえに、不当な世間の監視の目から逃れることができる。

これを実現するのに前提になるのは、まず日本人すべてが古い因習的な家族観をかなぐり捨てることだろう。介護施設を「姥捨て山」のように見なし、利用者を親不幸呼ばわりする時代遅れの固定観念を脱却することである。

 

私たち自身が考えを改めることから・・・

 

冒頭で述べましたが、介護問題については個人やいろいろな事情による考え・意見があり、そうしたものを否定するものでなく尊重したいと思います。
現在、介護を受けている方やこれから受けようとしている方々の「古い因習的な家族観をかなぐり捨てる」ということは、現実的には不可能でしょう。
しかし、50代60代の私たちの世代は、そうした現実を目の当たりにしています。 だからこそ介護を通して、家族の在り方を考える必要性があると思います。

残る老後生活の社会化のためには、たぶん老人の主導が必要であって、親がまず子や孫を対等な他者として突き放すことである。その上で彼らとたまの晩餐など、社交的な交わりを結べばよいのであって、この新しい家族関係が意外に楽しげである。

私たち世代の考え方が変わらなければ、結局また同じ問題を繰り返すことになるのではないでしょうか。