地域の人たちと共に開催
シベリア抑留から生還の父の想い
毎年地域の方々が「戦争と平和を語るつどい」を開催しています。
この集いのことは知ってはいましたが、今まで会場に訪れることはありませんでした。
二か月ほど前、ご近所の友人から声をかけられ、戦争体験した人のお話が聴ければと話されていました。
今年はアジア・太平洋戦争が終結して79年目の年になりました。
戦争体験者やその遺族の高齢化が進み、戦争を体験していない世代が国民の多くを占める時代になりました。年を経るごとに当時の記憶を聞ける機会は少なくなり、戦争がもたらした数多くの悲惨な出来事が薄れようとしています。
友人に義父のシベリア抑留の話をしたことから、「ぜひ今回のつどいで話をしてくれませんか」と依頼され準備をすすめてきました。
義父はシベリア抑留から生還した後、戦争やシベリア捕虜生活の記録を数多く残していました。
それは、地方紙に投稿した記事、戦争に反対する手記や手紙類、更には絵画、書、短歌の数々など戦争に関わる資料です。
これらの遺品を整理して、先日開催された「戦争と平和を語るつどい」でお話させていただきました。
「戦争と平和を語るつどい」会場の一角をお借りして、父の戦争に関わる資料、作品を展示させてもらいました。
お話はパワーポイントを使いました。
父は終戦と同時に牡丹江でソ連の捕虜となり、4年間シベリアに抑留されました。
この時の体験談として「働くざるもの食うべからずが鉄則だった」と手記に残し、多くの仲間たちが屍になったと語っていました。
父の遺品に「捕虜体験記」がありました。
これはシベリアに抑留された日本人の体験談がまとめられた書籍で、全10巻という膨大な資料です。
その中の第7巻、父が捕虜として生活した「タイシェト・イルクーツク編」です。
父が残した手記をはじめ、体験記に記された悲惨な出来事を後世に残さなければと思います。
「ソ連兵の銃剣は怖くなかった」それよりも・・・。
多くの捕虜体験者が語っていました。
「日本軍隊は軍律の名のもとに私的制裁を陰に陽に認め、それによって上下関係を確固たるものにしており、数世紀前の封建社会の身分制度そのままであった」 と。
こうした制裁によって捕虜生活2年余りで多くの人たちが亡くなったと記されていました。
このような状況は、日本の軍国主義からみえる「もう一つの戦争」があったことを忘れてはならないと思います。
色紙に挿絵を入れたシベリア抑留の短歌
今回の「戦争と平和を語るつどい」では戦争に関わる多くの遺留品や記録、作品が展示されました。
被ばく者から話を聞いて「高校生が描いた原爆の絵」
陶製の手りゅう弾や召集令状の赤紙
父は晩年まで
「戦争というのは、その時々の独裁者や軍部、利権を得ようとする一部の人間によって引き起こされるもの」
と語っていました。
この言葉の意味は、ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるガザ侵攻などの海外の戦争を指しているだけではありません。それは、戦前日本が犯した侵略戦争と同時に、かたちを変えた今の日本の政治を指しているものでした。
まさに、「新しい戦前」と言われる意味が、この父の想いに重なりました。
こうした「戦争と平和を語るつどい」は、全国の様々な地域で開催されていると聞いています。
私たちにはまだ戦争体験者やそのご遺族のお話を聞く機会があります。体験者の貴重な手記や文献が身近に残されています。これらの記録を残し、体験を後世に語り継ぐことは、今を生きる私たちに課せられた責務ではないでしょうか。