今の世相に思うこと
自由な情報発信の落とし穴?
インターネットの普及により情報伝達のスピードがますます高まってきています。
それは、私たちを取り巻く生活圏のあらゆる領域に浸透して、とても便利なツールといってもいいでしょう。
今ではお金やカードといった必要なモノまでスマホ一つあれば生活できるようになりました。
こうした中、多くの人たちが日常的に使っているネットサービスにSNSがあります。
このブログもその一つです。又、ツイッター、インスタグラム、フェイスブック、ユーチューブ、LINEなどもそうですね。
インターネット上で簡単に投稿できたり、それを読んだり、グループや個人的なつながりが瞬時にそして簡単にできるようになりました。
本当に便利になりました。
しかし一方で、目に見えない相手からの誹謗中傷や詐欺まで発展するツールとして社会問題になってきています。
全てを信じてしまうと誤ったことにつながってしまい、自己コントロールが求められます。
7月、東京都知事選挙がありました。
この選挙では新人の石丸伸二氏が165万票を獲得して大きな話題になりました。
政治に無関心な若者世代や無党派層に支持されたようで、 ”今の政治のあり方を考える” という意味で大きな一石を投じた選挙ではなかったかなと思いました。
この石丸氏の選挙戦の特徴にネットを駆使した戦略があったと多くのメディアが報道していました。
その報道の一つに、石丸氏が「スマホのラインの友達に(自分の)写真や動画を撮って、迷わず送って」と街頭演説に集まった聴衆に呼びかけたそうです。
又、映し出された街宣車には、「SNS投稿OK」「撮影・拡散OK」のステッカーが貼られていました。
こうした状況を見聞きして、選挙一つとっても世の中の変化を感じます。
今年2024年は、「世界選挙イヤー」と言われているそうです。
米国においても大統領選挙の様子が盛んに報道されています。そのニュースを観ると、演説のほとんどが対立候補の誹謗中傷だけに集中していることに驚きます。
もちろん短時間のニュースですからすべての演説内容が報道されず、何か面白おかしく話題になりそうな演説だけを切り取って流しているのでしょうが。
こうした報道も前述した東京都知事選にも似たようなものを感じます。
ただ違和感を感じたのは、候補者が具体的な政策をほとんど口に出さないことです。これは今に始まったことではなく、ここ数年の街頭演説を聞いてもわかります。又、国会審議答弁の様子でもよく見られる光景ですが、 ”はっきり言わない・応えない、論点を逸らす” といった感じがあるように思えてなりません。
先日、東京新聞の「時代を読む」(7/28付け)のコラムに田中優子氏のお話が掲載されていました。
この中に「リテラシー」という言葉が出ていました。あまり聞きなれない言葉ですが、「読み書き能力」という意味で、最近ではビジネスシーンにおいて理解力や適応能力として使われているようです。
この田中優子氏のお話がとても興味深かったのでご紹介します。
東京都知事選の結果の背景には、この25年ほどの間に起こった、日本人のリテラシー、つまり読み書き能力の、急激な凋落があったのではないかと思っている。
私は中学・高校時代、特に国語が苦手でした。このため大学受験でも合否のカギを握ったのが国語でした。
国語ができる、得意とする友人の特徴はよく読書している人が多かったように思えます。教科書に限らず様々な分野の本を読んで、その内容を理解する力が養われているのでしょう。
田中氏は続けて、
たとえば、人々は政策を読めない、理解できない、ということを前提に、政策を説明せずに経験談を語って共感を呼ぶ。真剣な議論をしない。質問されると別の話題にそらす。あるいは冷笑して質問し返す。街頭演説は短く、数は多く、という手法を徹底するなど、「ともに学び考える」のではなく、できるだけ考えずに投票できるように導く。そういう候補者に票が集まった。
最近、新聞や雑誌、各種書籍などの購読が減っているとよく言われています。
これはネットの進化やSNSの普及によって紙での情報がそれほど必要ではなくなってきているのでしょう。
そうした状況から ”情報の一部分” だけで物事を判断してしまいがちになる傾向があるように思えます。
以前、新聞社の読者交流会に参加した時、編集部の責任者が、「毎日の新聞づくりで最も神経を使うのは一面トップの見出しと記事です」と話されていました。
多分、どの新聞社も同じではないかと思います。この日の新聞で最も言いたいこと、強調したいことを一言で言い表すためには ”トップの大きな見出し” なのでしょう。読者はこの見出しに注目して、具体的な記事内容に目を移していくのではないでしょうか。
しかし、これがSNS上の情報や記事ではどうなのか。
膨大な情報が飛び交う中、一目で注目を集める記事、見出しがより突出したかたちで表現されるようになります。具体的な内容よりも端的な言葉で話題性をとる手法になっているように思われます。
注目を集める言葉だけが独り歩きして、その前後の中身が特に理解されなくても簡単に「いいね!」の一言で済まされ同調する傾向にあります。
もちろんSNS上の情報がすべてこのようなものではありません。ただ、あまりにも情報過多のためどうしても短時間でわかりやすい説明や訴えのあるサイトに集中する傾向があると思います。
こうした状況から、例えば政治や選挙での政策は長文で難しさがあり、しかもその訴えが多岐にわたっていることから敬遠さがちです。
そこで、田中氏の言う、「人々は政策を読めない、理解できない・・・政策を説明せず経験談を語る」という方向にシフトしていくのでしょう。それが逆にわかりやすいということで支持を集める傾向にあるのかもしれません。
結果、「できるだけ考えずに投票できるように導く」手法がとられていくのかなと感じます。
私たちの生活はネットの普及で大変便利になりました。
わからないことでも検索するだけで答えが瞬時にわかりるようになりました。そして、そのことが ”正しいと錯覚” してしまう傾向にあるように思えます。
大事なことは、そこで ”考える” ことではないでしょうか。
田中氏は、考える力を養うために読書(本)を例に挙げ推奨していました。
過酷な状況にあるからこそ、本は社会における自分の座標を知る入り口、つまり「扉」になった。
本はそもそも自分のために読むものだ。座標をつかむだけでなく、自分の発すべき「言葉」をそこに発見していく。黙って従うことの中に未来はないことがわかる。
田中氏は、 ”読んで理解する能力(リテラシー)” が自分の立ち位置をはっきりさせ、今まで感じていたこと、思っていたことを「言葉」として自分自身に取り込むことができるようになると教えてくれています。
私たちの生活に直接関係する政治は、私たちが思っている以上に身近なものだと思います。
奇をてらった話題性のある言葉だけで聴衆(SNS上)を引きつけようとする発言や動画にはしっかりと間を置き、冷静に理解・判断することが必要だと感じます。
私たちは、 ”誤った政策を読める、理解できる” だから真剣な議論ができるようにしていきたい。
黙って従うことはしたくはありません。