続:「女性の自立をはばむもの」

朝日新聞特集「追いつめられる女性たち」

ケア労働の過小評価!

 

6/25日のブログ、いのうえせつこさんの講演会「女性の自立をはばむもの」の続編です。
現在、朝日新聞に特集として掲載されている「追いつめられる女性たち」について考えていきたいと思います。

前回のブログで読者のRoseさんからコメントをいただきました。
同じような問題を提起している朝日新聞の特集記事「追いつめられる女性たち」について紹介がありましたので、早速図書館に行って読んでみました。

この特集版は連載記事でした。各界の著名人や知識人が様々な角度から「追いつめられる女性たち」の現実とその内容が寄せられていました。

私たちの年代になると日常生活の中で「親の介護」に関わることが多くなります。
それは親元を離れていても田舎に暮らす両親の介護や同居もまたしかり。又、親の老々介護の状況に直面したり、訪問介護(ホームヘルプ)や通所介護(デイサービス)に関わったり、更に介護施設への入居手続きからその後の支援・・・。
こうした状況の中から同時に介護施設で働くケアマネジャーやヘルパーさんの働く姿を現実に知る機会にもなります。
そういう意味では、私たちの世代は誰もが何らかのかたちで ”ケアという現実を目の当たりにする” ことが多くなってくるのではないでしょうか。

介護現場では、若い職員の離職や志望者の減少が続き、深刻な人手不足が起こっているようです。
ホームヘルパーの年齢構成は60歳以上が4割を占め、80歳代のヘルパーが現場の重要な戦力となる一方、20歳代のヘルパーは全体の4%という実態のようです。

このような状況は私自身も母や義父母の介護施設の現場を見聞きしてよくわかりました。
こうした事態を引き起こした要因は、介護従事者の過酷な労働環境と低処遇だと思います。介護従事者の中心になるのはほとんどが女性でしかも非正規です。
正規であっても介護職員の平均給与は全産業平均より月額約8万円低いとされる状況のようです。

そうした事態に現政権(岸田首相)は、ケア労働者の収入を「思い切って増やす」と約束しましたが、介護職員の賃上げ額は「月9000円」にとどまりました。なんと情けないことか、これが実態なんです。
若干の賃上げといってもこれは正規職員の話です。では非正規は?・・・。

大切な親の介護に親身になって働いていただける介護職員さんやヘルパーさんに申し訳ない気持ちになります。

 

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朝日新聞特集「追いつめられる女性たち」

 

朝日新聞の特集版に「ケア労働 報酬と評価を正当に」というタイトルで同志社大学の岡野八代教授の記事がありました。

ケア労働が市場経済のなかで軽視され、評価されないのはなぜか・・・。
資本主義経済で富をたくわえるには、商品である労働力をできるだけ安く確保する必要がある。そのため労働力の再生産につながる家事や育児といった「再生産労働」はタダで、生物学的な「生む性」の女性が担うものとされてきた。
つまり家庭でのケア労働は、経済的に評価されないまま国家と資本家に搾取され続けてきた。いまの日本でも、ケア労働を女性にタダで押しつける社会構造が根深く残っている。

確かに言われるとおり、家庭でのケア労働は経済的に評価されないまま今も続いています。
同時にこのことは、国の政策として「介護の社会化」(社会全体で支える)と謳われているにも関わらず、その中心となる介護従事者にも当てはめられているのが現実ではないでしょうか。

ケア労働は、自動車などの商品の生産活動と違って、何を作ってどんな価値を生み出しているのかが見えにくいという特徴がある。つまり、市場経済ではその価値を測ることができない・・・。

サービスにかかる費用をどう見積もり、誰がどのくらい負担するか、といった点は、常に政治の課題になる。ケアの提供者にいくら報酬を払うか、その価値は政治的に決まる。

まさにのとおりだと思います。
今の介護施設のほとんどは民間運営です。国の介護施設管理に関わる基準・規制はあったとしても、民間の運営なのでそれを維持管理するための経費削減が行われるのが資本主義経済の現実です。
本来であれば社会保障制度の一環として公務の要素を備えた介護施設運営でなければならいと思いますが、すべて民間丸投げ政策ですから、その価値が疎んじられるものになるんでしょう。

このような状況にならないために「常に政治の課題」であり「その価値は政治的に決まる」ものではくてはならないと思います。

ところが日本の政治家は、自分自身では家事も育児もしたことがないという男性があまりに多い。
自身はケアを担わなくてもよく、誰かにケアを押しつけておくことができる「特権的な無責任」の地位でいられる者が、ケア労働を過小評価している。

これこそまさに今の政治の現実ではないでしょうか。
すべてではありませんが、社会保障制度をはじめそのほとんどが男性政治家によって審議され法案が決まっていく現状こそが問題だと痛感します。ここにこそ「過小評価」される実態があるのでしょう。

 

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先日、冠婚葬祭の席で久しぶりに50代の親戚の人(女性)に会う機会がありました。
彼女曰く「ようやく娘二人が独立して子育てが終わったと思ったら、今度は同居する義父母(80代後半)の介護がのしかかってくる」と話していました。
こうした話はこの年代になると必ずっていうほど話題になります。
私たち夫婦もそうでしたが、個人的な家庭の問題として対応することは当然のことと思いますが、一方で社会的にしっかり支えられる仕組み(介護システム、経済的な負担軽減、人員対応など)が必要だと思います。
なぜなら、これらのことは私たち人類が生きていくために繰り返される課題でもあるからです。
だからこそ「常に政治の課題」なんだと痛感します。

 

岡野氏は最後にこのように述べていました。

ケアを必要としない人は一人もいない。自分はケアとは無関係という人がいるならば、それは無意識に誰かにケアされているだけのことだ。
ケア労働は、尊厳にかかわるやりがいのある仕事でもある。その価値を正当に評価するためには、生産性のみを優先する社会の価値観を転換していく必要があると考えている。

 

「女性の自立をはばむもの」は数多くあります。そこには「価値観」というものが存在することを改めて学んだ思いです。
昔からの「男尊女卑」という誤った価値観は発達した社会の中でもまだまだあります。同時に「生産性のみを優先」する社会にあってケア労働がないがしろにされてきたことも誤った価値観だと思います。

そうした社会が今後も進むようであれば、逆に衰退していく世の中になるのでしょう。

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