「素劇・楢山節考」

素劇~想像力を膨らます演劇手法

現代にも通じる同調圧力!?

 

「楢山節考」といえば姥捨て山という認識しかありませんでした。
今まで本を読んだり、映画鑑賞したりすることもなく題名だけは知っている程度で、今回はじめてその物語を演劇で鑑賞しました。

私は演劇を観る会に入会しています。2か月に一度の頻度で年6回の鑑賞会があります。
今年は2月に劇団民藝の「ある八重子物語」、4月は劇団NLTの「ミュージカルO.G.」でした。

今回の舞台では「素劇」(そげき)というサブタイトルが気になりました。素劇?いったいどういう意味なんでしょうか?

素劇とは、リアルな装置や修飾的な衣装・メイクなどを一切排除し、観客の想像力を喚起することによって物語の真意(ドラマ)を表現していく・・・、素朴・単純にしてより深い意図を表すための模索の中から編み出された表現様式。
「素劇・楢山節考」パンフレットから

演劇を鑑賞しはじめてなるほどなと思いました。
一般的な演劇とは異なり舞台装置はまったくありませんでした。背景は暗幕に山が描かれ、舞台にはサイコロ状の箱が十数個あるだけでした。
又、音響は舞台脇にアコースティックギターと太鼓などが置かれ、進行に合わせて生演奏する手法でした。
最初はこれで演劇ができるの?とちょっと心配になりましたが、そんな事すら忘れるほど一気にのめり込むくらい素晴らしい劇でした。
特に大掛かりな舞台装置や衣装がなくても十分楽しめるものだと思いました。

こうした素劇では舞台俳優の演技力がないと観客を引き付けることができないと思います。逆にいえば俳優さんの演技力が試される舞台ではないでしょうか。

 

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「楢山節」を「考える」

 

「楢山節考」の短編小説が発表されたのは昭和31年です。なんと私が生まれた年ですから67年前の作品ということになります。
調べてみるとその間2度映画化されたようです。

<あらすじ>
信州の山あいにある小さな村。村には名前がないので、山ひとつ隔てた所にある隣村をお互い「向こう村」と呼び合っていた。
その向こう村から50年前に嫁いで来たおりんは今年69歳になる。この村も向こう村も70歳になると、村からはるか離れた楢山にまいる掟があった。おりんは、楢山に行けば先祖や母や姑が神様になって迎えてくれると信じて、その日のために準備を重ねていた。

私は登山が趣味です。日本全国の山々を登ってきました。そのほとんどはそこに住み続けてきた地元民から崇拝されあがめられてきた山が多かったです。麓には社殿があり頂上には本殿や祠がありました。昔から山そのものをご神体とした山岳信仰なんですね。

楢山も同様に神が宿る山として崇拝され、村では「楢山まいり」(70歳になったらお山に行く)が伝承され、それに「節」(歌などの旋律)がつけられ謡われてきたのが「楢山節」ということがわかりました。
舞台でも村人たちが「楢山節」を謡う場面がありました。

この「楢山節」は、その唄の背景に口減らしのための姥捨てという意味があります。こうした悲惨な行為を ”ご先祖様が神になって迎えてくれる” と信じて美化されたものなんでしょう。

現実にはこのような姥捨てというものは実在しないものの、極貧の中で口減らしのためにそれに近い様々な行為が行られてきた実状はあったと思います。
原作者の深沢七郎氏はこうした状況を「楢山節」を題材に「考えてみよう」と社会に投げかけたものだったんだと思います。

 

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この「楢山節」の意味には、現代社会の中でも数多く通じるものがあると思います。
それは ”同調圧力” ではないでしょうか。

例えば、「皆がそうしているんだからお前もそれに従うべきだ」「皆が我慢してるんだから、あなたも我慢すべき」というふうに直接・間接的な周囲の圧力があったりします。そこには自分の考えを述べたり、意見することも憚られる雰囲気があるのではないでしょうか。

最近のコロナ禍でもそうした圧力を感じる場面が多々ありました。
感染防止のためにお互い自粛するのはわかりますが、それが過度になると相手への批判や暴力にも発展し、SNSでは炎上することもみられました。
又、会社内でお茶くみは女性の仕事として位置づけられたり、宴会などで女性社員が上司のお酌をするのは当たり前など、こうした悪しき習慣や風習?も周囲の同調圧力があったりします。
こうした同調圧力は、今で言うパワハラ・セクハラ、ジェンダー問題など広い意味で捉えることができると思います。

更に戦争という悲惨な出来事もまたしかりです。
最近ではロシアによるウクライナ侵攻。ロシア国民の中にもこの侵略はおかしいと異を唱える人々は数多くいると思います。しかし、一部の権力者の力によってそれらの声は封印され、この戦争が正義とされる風潮を作り出す(プロパガンダや教育)ことでその正当性を主張し美化されます。そしてそれらは次第に同調圧力となり、声を出すことができない状況が生み出されるようになるのではないでしょうか。

今の社会保障政策についても似たようなものがあります。
少子高齢化によって高齢者の年金、医療、介護財源が増え続けることで子育てに関わる財源が足りなくなるという論法です。そしてそれらの財源は消費税(増税)によって賄われるという考え方です。
これには2つの狙いがあります。一つは消費税増税の正当化、二つ目は高齢者と若者世代の分断です。
そもそも様々な歳出費は、歳入全体から考え必要に応じて割り当てるものです。社会保障費は消費税で賄うものではありません。
一方、財界からの要請で法人税減税が幾度となく行われてきました。その財源を補完したのが国民負担の消費税でした。少子高齢化で国家財政がひっ迫するという宣伝(プロパガンダ)を盛んに行い、高齢者が最大の問題であるかのような同調圧力を進めているような感さえあります。

 

以上のような同調圧力には共通点があります。それは物事の本質を覆い隠してしまう点だと思います。

「楢山節考」に戻ります。
昔は特に農村地帯はかなり厳しい生活が強いられていたと思います。年貢に苦しめられその日暮らしもままらない状況だったのでしょう。
そうした状況の中、江戸期の頃「一揆」が起こったことも理解できます。そしてそれは連帯責任ということで罰せられ村全体に責任を負わせられました。
こうしたことも同調圧力をうまく利用した体制側(支配管理する側)の策だったと思います。
生活が苦しいのは個人の責任ではなく、そうした社会体制にあること。それらを覆い隠す手段に用いれられたといっても過言ではないと思います。

今の世の中「自己責任」論のいろいろな呪縛に縛られているという状況にあります。
はたしてそうなのか?

演劇「楢山節考」の鑑賞を通して、現代の様々な矛盾を「考える」機会になりました。

2 thoughts on “「素劇・楢山節考」

  1. こんばんは。
    楢山節考をテーマとした内容を興味深く拝見しました。
    特に、素劇という形態の演劇のことは初耳でしたので、Youtubeで調べてみるとダイジェスト版
    のようなものが見つかりましたので、舞台の雰囲気を想像することができました。

    ところで、冒頭にある楢山節考の世界、そこには70歳になったら楢山参りをするという村の掟が
    あるわけですが、映画としての本作については、木下惠介と今村昌平という対照的な両者の作風
    を比較してもあまり意味がないかもしれません。
    スクリーンに表現しようとする対象へのアプローチが違うだけで、乱暴な言い方をすれば観客の
    好みの問題かなという気もします。

    ただし、緒形拳が以前、今村昌平についてラジオのインタビューで語ったことがり、その時の
    「あれは・・尋常じゃないね」という一言で伝えようとした、監督や周辺の人物が発する肥溜め
    みたいに強烈な体臭(のようなもの)に圧倒された記憶があります。

    そして現代へ移動しまして、
    平成31年に70歳まで厚生年金加入期間を延長しますという話を聞いた時、実際には旧厚生省
    以来のずさんな政策のツケを庶民に回しているだけなのに、何となくサラリーマン(及びその
    配偶者)を優遇しているような気がしたものです。
    そして、70歳到達時には厚生年金の被保険者資格を喪失するというわけで(一部例外あり)、
    庶民は年金財政への貢献度が低下した存在となり、後はご随意にどうぞという感じで現代版の
    お山詣りみたいに思えなくもありません。

    私事ですが、つい先日、満99歳で自分の母を見送りました。
    名古屋市内中心部のかなり高額な養護施設で晩年過ごすことができて、それなりに恵まれた環境
    だったとは思いますが、本人にとって生活の自由度はほとんど無くて、いつか必ずやってくる
    「その日」へ向かっての単調な生活が続くだけの毎日でした。

    これなどは、いずれ自分も行く道ということで、リアルな人生の流れを実感いたしました。
    深沢七郎の小説は一種の寓話と思いますが自分の人生の終わりをどうしたいのか、時々は真面目
    に考えようと思います。

    蛇足ながら、
    どこかの大学(高校かもしれません)で、ある映画を題材として、主人公の置かれた環境のその
    後の展開を考えさせるという課題を学生にやらせたという話を読みました。
    なお、私は未見ですが「デンデラ」という作品では山に捨てられた老婆たちが女だけのコミュニ
    ティを形成して、しぶとく生き残っていくという展開で、結末は明るいものではないらしいので
    すが、本来の楢山節考を挑発するようなイメージが浮かんできて、少し痛快な感じがしました。

    1. Zampamoさん

      こんにちは。
      たいへんお久しぶりですね。お元気そうでなによりです。

      素劇を初めて鑑賞しましたが、これほど思いに残る演劇は久しぶりでした。
      装飾物や衣装がほとんどない舞台で観客をこれだけのめり込ませる演劇は、役者さんの演技力が素晴らしかったんだと思います。
      ブログでも素劇のことについて「観客の想像力を喚起する」と引用しました。まさにその通りだったな~と思いました。観客一人ひとりの思いは異なるでしょう。それぞれの人が本を読むように想像力を膨らませる演劇だと思いました。

      お母さまは99歳で逝去なされたんですか。長寿だったんですね。
      私の母も昨年末97歳で亡くなりました。Zampamoさんがおっしゃるように晩年は

      >「その日」へ向かっての単調な生活が続くだけの毎日でした。

      ほとんど会話することができない状態でしたので、何を考えどんなことを思っているのかわかりませんでした。ただ苦しむことなく静かに息を引き取ったので良かったと思っています。

      この歳になって親の死に直面するとやはり「自分の人生の終わりをどうしたいのか」という思いが巡りますね。

      貴重なコメントの数々ありがとうございました。

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