核兵器禁止条約

ICANのノーベル平和賞受賞

ヒロシマの有る国でしなければならないことは?

 

12月10日ノルウエーの首都オスロで核兵器禁止条約の採択への貢献が評価された「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)へのノーベル平和賞受賞式が行われました。
この授賞式では、広島で被爆したサーロー節子さんが核兵器廃絶を目指す演説を行い、会場の参加者はおろか世界中の核廃絶を願う人たちから注目を集め歓迎と称賛の声が上がりました。

この授賞式の放送は、11日に日本のメディアでも流されましたが、私の知る限りではほとんどのTVニュース番組としては大きく取り上げられなかったと思います。
唯一この授賞式のもようを現地(オスロ)から中継し、この授賞式の意義及び演説内容を放映したのがテレビ朝日の「ニュースステーション」でした。
更に同番組では、授賞式への賛同とサーロー節子さんの演説の重みについてコメントされていたことに大変共感を覚えました。

サーロー節子さんの演説 (朝日新聞DIGITAL)

 

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私の父は、戦時中の若い頃広島で育ちました。
父は終戦当時徴兵されて九州に出兵していたことから ”あの広島の惨劇” を免れました。
終戦後、父は静岡に戻りましたが、親兄弟全員は広島に残りました。

私が中学卒業時に一人で夜行列車に乗って広島の親戚を訪れたことがあります。
父は広島の親戚に連絡を入れて手紙とお土産を私に持たせて送り出してくれました。
広島で数日間宿泊したのは父の兄(長兄)の家でした。

伯父の家は原爆ドームから近かったこともあり、何度か歩いて広島平和記念公園を散策した記憶があります。
この時、公園のベンチに座って原爆ドームのスケッチをした覚えがあります。帰ってからそのスケッチを元に油絵を描きました。
なぜスケッチしたのか、なぜ油絵を描いたのかは、今記憶を辿ってもよく分かりません。

又、公園内にある「広島平和記念資料館」での衝撃は、今でも忘れることはありません。
まだ中学生だったこともあり、”なぜこのようなことが起きたのか”  というところまでは考えが及びませんでした。
そのことよりもあまりにも悲惨な写真や映像が深く心に残っただけでした。。

資料館から帰ってから、この衝撃の想いを伯父さんと伯母さんに話した記憶があります。
伯父、伯母共、私の話をよく聞いてくれました。そして私の質問にも応えてくれました。
しかし、伯父伯母自らすすんで当時の原爆の話をすることはなかったように記憶しています。
静岡に帰ってから父に広島でのことを話してみましたが、父からも原爆とその凄惨な状況についての話はほとんどありませんでした。。
まだ10代だった子どもに対して、あまりにも悲惨な出来事とその体験を話すのは辛かったのではないかと思います。
そんな父と伯父伯母は、それぞれ20年前に他界しました。

 

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12月12日 朝日新聞と毎日新聞の記事

 

サーロー節子さんは、13歳の時に広島で被爆し現在85歳だそうです。
当時の事を知る人は、すでに高齢となり徐々にその数は少なくなってきています。

今回のサーロー節子さんの演説の中で、

「人類と核兵器は共存できません」
「核兵器は必要悪ではなく、絶対悪です」
と力を込めて指摘していました。

「核の傘なるものの下で共犯者となっている国々の政府の皆さんに申し上げたい。私たちの証言を聞き、私たちの警告を心に留めなさい。そして、あなたたちの行動こそ重要であることを知りなさい。あなたたちは皆、人類を危機にさらしている暴力システムに欠かせない一部分なのです。私たちは皆、悪の凡庸さに気づかなければなりません」

「核の傘」なるものの共犯者になっている国とはどこでしょうか?
世界で唯一の被爆国である国がなんと核兵器禁止条約に反対しているとはどういうことでしょうか?

世界で唯一の被爆国は禁止条約の橋渡しの役割と責任があるのではないでしょうか。
アメリカの「核の傘」に頼らない道を真剣に探究することではないでしょうか。

10日、広島市の松井一実市長はオスロで、核保有国が同盟国に核兵器の抑止力を提供する「核の傘」について、
「核に守られていると思うのはイリュージョン(錯覚)」
と述べました。

又、長崎市の田上富久市長は、
「核が安全を守っていると言い続ける限り、核を手放すことはできない」
と指摘していました。

このお二人の市長が述べたことこそ、まさに今の核の傘と核保有の本質を突いていると思います。

 

高校卒業時、進学も決まって再び広島を訪れる機会がありました。
この時も伯父伯母の家に泊まりました。
この時には、”なぜこのようなことが起きたのか” という歴史背景は理解できていましたが、伯父伯母に当時の体験や様子を改めて聞くことはしませんでした。
子ども心に伯父伯母の辛かった当時の事を掘り返してはいけないと感じていたのかもしれません。
この時の広島での思い出は、伯父伯母と共に平和な安芸の宮島を観光したことだけが記憶に残っています。

 

2か月前、川越市民コーラスのコンサートに行った時、最後に歌われた曲が「ヒロシマの有る国」でした。
ブログ「歌詞の重み」

この歌は、二度と起こしてはならない戦争(核の脅威)に対しての非核への想いを伝える曲です。

この曲の最後のフレーズの歌詞は、

ヒロシマの有る国で しなければいけないことは ともるいくさの火種を消すことだろう

唯一の被爆国である私たちの国こそが核兵器廃絶に向けた役割を果たすことではないでしょうか。
そして、世界もそのことを望んでいるし、”被爆国である国の重みと姿勢” の訴えは、最も説得力のあることではないでしょうか。

今こそヒロシマの有る国は、「核兵器禁止条約に署名し、批准すること」が求められていると強く思います。

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