書籍「65歳 何もしない勇気」
心の断捨離?
本というものは、まずそのタイトルに目が留まります。
どんな内容の本なのか、何が書かれているのか・・・、自分にとって興味のあるものか、関心を寄せるものなのか・・・。
そんな想いを抱きながら手に取って目次を見たり、気になる個所を流し読みしたりします。
このことは、書店で購入する時も、又、無料とはいっても図書館で借りる時も全く同じような行動です。
そしてその内容が、予想したとおり「やっぱりそうだった」とか、「何か違うな~」と期待を裏切られたりすることがあります。
以前、会社時代の同僚たちとの飲み会がありました。
この会は定年退職したオヤジたちの集いです。継続雇用や転職した仲間、完全リタイアした人も含めてそれぞれの道を歩みはじめています。
飲み会での話題は、この世代を物語るように仕事、病気、年金、親の介護などでした。
そんな中、継続雇用やリタイアした仲間との会話から、「もう俺は終わった人だから・・・」という言葉が出てきました。
私はその言葉を聞いて、「エッ!それって内館牧子の『終わった人』の小説のこと?」と聞いてみました。
二人とも「そうだけど、なんで~」と聞き返してしてきました。
仲間たちとの話の流れから、彼らが言葉にした「終わった人」の意味は、ちょっと投げやりで半分冗談も含めたつもりで ”人生終わったよ” として使ったものでした。
こうした意味合いの言葉は、会話の流れからよく使われたりします。
しかし、冗談半分な言い方だとしても小説『終わった人』のタイトルを口にして、又、そう解釈して使われることに、ちょっと違うんじゃないかな~と違和感を覚えました。
なぜなら、内館牧子さんが小説『終わった人』の中で読者に投げかけたことは、人生の節目にあたって ”思い出と戦っても勝てない” ことを認識し、そこで今までの人生の棚卸をして次にステップしていく、”明日がある人” のことだからです。
※ブログ 小説「終わった人」
定年退職して、もし仮に自分は「終わった人」だと本当に思っている人は、いつまでも思い出と戦っていて棚卸ができていない人なんだと思います。
先日、書店で「65歳 何もしない勇気」(幻冬舎 樋口裕一著)を手に取りました。
タイトルを見れば「なんだこりゃ?」と思いたくもなりますよね。
65歳にもなってずいぶん無責任で投げ遣り的なタイトルです。
この本は、著者の随筆形式で、65歳になっても「何かしなければならない」という束縛や意識から自分を解放していくための生き方、考え方をまとめたものでした。
こうした随筆は、著者の考え方が読者に対してストレートに訴えかけてくるものがあるため、読み手からみれば賛否両論の感想があるのではないかと思います。
私も最初このタイトルと目次を見て、ずいぶんいい加減な本だな~と思いましたが・・・、実は全く違うことが読み進めていく中で理解することができました。
それは、この本の冒頭(まえがき)で書かれていることが、この著書の全てを物語っていました。
これまでの人生で得た価値観をそのまま高齢者になっても持ち続けて、意味のない我慢をしたり、無理をしたり、気をつかったりしています。もうそのようなことをしなくてもいい立場になっているのに、自分でしなければならないような気がして、あれこれと仕事を増やし、気苦労を増やしています。
そうして、むしろ人に迷惑をかけたり、自分でストレスを作り出したりしているのです・・・。
そこで私が考えたのは、心の断捨離です。
「65歳 何もしない勇気」の ”まえがき” より抜粋
著者が主題とした「何もしない勇気」とは、世の中のことや家庭のこと、又、友人や周りの人たちとの付き合いなどに対して、”何もしない” と言っているのではありませんでした。
これからの人生は、そうした関わりやコミュニケーションに対して、一言で言えば ”取捨選択” をしていったらどうですか? という提言だと受け止めました。
このことは現実的に多くの定年退職者やリタイアされた方々が、実は意識、無意識のうちに実践されていることだと思いました。
そのことを敢えて「何もしない勇気」として、リアルに随筆化したものではないかと思います。
例えば、目次では第1章「我慢はしなくていい」、2章「無理はしなくていい」、3章「気を使わなくていい」・・・。
一見して、なんと無責任で身勝手な言い方なんだろうと思ったりしますが(笑)
「我慢しなくていい」
我慢という気持ちや行動は、学び成長、生きていく過程で必要なことだと思います。仕事や学問、スポーツなどにおいてもよく使われ日本の文化を支えてきた一面もあると思います。
しかし、それら全て我慢していけばいいかといえばそうではないと思います。
著者が例として挙げているのは、「しなければいけない」ことを立ち止まってもう一度考えてみてくださいと投げかけています。
突き詰めて考えれば、そのことは本当に「我慢してしなければいけない」ことなんだろうか?ということです。
仕事上しなければいけないこともあるでしょう。そのことは否定していませんが、押し付けられたことに対しては考えて行動してくださいということなんですね。
60代は、そうしたことの分別や判断ができる年代なんだと。
又、「我慢」は私たちの身の回りでもたくさんあります。
■年金だけでは生活できない、そんな頼みの年金も削減されているが我慢していくしかない。
■病気になって医療費の負担が大きくなってきているけど、治すために我慢しよう。
■特養に入りたくても倍率が高いので、費用がかかる老人介護施設や在宅介護で我慢していくしかない。
■保育園の数が足りず、子どもを預けて仕事を続けることができないが我慢して来年また応募しよう。
■・・・。
制度で決まっているからしょうがない、国で決めたことだからしょうがない、皆そうだからしょうがない・・・。
結果、我慢することが当たり前の風潮になり、突き進めばそのことが ”美徳” に置き換わってしまう現象につながっていくことも考えられます。
「皆そうだから我慢しよう」が当たり前になり、そのことに対して反論することを控えてしまうことになりかねません。
我慢さえしていれば何とかなるのでしょうか?
ここ最近、地震や台風などの影響で自然災害が各地で多発しています。
こうした中、被災者が避難所や仮設住宅で不便な生活を強いられている様子が報道・放映されています。
このような状況を目にするだけでも気が重くなり、なんとかならないものかと思うばかりです。
あの7年前に起きた東日本大震災でもまだ多くの被災者が不便な環境の下で生活されているようです。
こうした状況もすべて「我慢」なんでしょうか?
自然災害時の避難場所といえば、床に毛布を敷き詰めてひしめき合いプライバシーのない体育館が思い浮かびます。
緊急時の対応してはこうした状況になることは理解できますが、長引く避難生活において改善されないことが多いのではないでしょうか。
以前、自然災害の多いイタリアの対応と日本の避難所と比較するTV番組がありました。
ここでは具体的に紹介できませんが、国が全面的にバックアップして、不便を感じさせない快適な避難生活環境が整えられているようです。
我慢することが大事?という文化は、時と場合によっては改善を遅らせてしまうことにつながりかねません。
では、「我慢しなくていい」ということであれば解決、改善できるかというと、そんなことはありませんよね。
つまり、気持ちの持ち方や考え方を変えれば行動が変わる、そうしたことがこれからの人生において大事なことではないかと思いました。
筆者が述べている ”これまでの人生で得た価値観を高齢者になってもそのまま持ち続けることはどうなのか?” ということなんですね。
そういう意味で「心の断捨離」ということなんでしょう。
冒頭で本のタイトルの話をしました。
小説「終わった人」は、”明日がある人” のことを書いた本でした。
今回の「65歳 何もしない勇気」は、”心の断捨離” の話でした。