客観的な事実や真実が重視されない時代!?
最近、「ポスト真実」(post-truth)という言葉を耳にします。
この言葉は、昨年11月オックスフォード英語辞典が、2016年今年の言葉(word of the year)として発表したものです。
オックスフォード出版局は、「ポスト真実」を「世論を形成する際に、客観的な事実よりも、むしろ感情や個人的信条へのアピールの方がより影響力があるような状況」を示す言葉だと定義した。
「Post-」という修飾語は、「後に」「次の」という意味を持ち、「脱」とも訳される。
「Post-」の後にくる言葉は「過去のもの」となるので、「Post-」は転じて「重要ではない」という意味にもなる。
よってpost-truthは「客観的な事実や真実が重視されない時代」を意味する。
※ウィキペディアより
これは、昨年6月英国の欧州連合離脱を巡る国民投票と11月のトランプ氏が勝利した米国大統領選の選挙運動の過程を反映した選択からだそうです。
英国の国民投票の際、EUに支払っている拠出金の額の誤り(ウソ、デマ?)であったり、米大統領選ではトランプ陣営の事実に基づかない言動や宣伝があったようです。(米国の「ポリティファクト」)
公の立場にある人が政治的意図をもって、事実無根の主張をあたかも真実であるかのように平然と語る姿が「ポスト真実」ということだそうです。
この結果、国民投票と選挙によって英国は欧州連合離脱、米国はトランプ氏が大統領に就任しました。
各新聞社の社説
このことから、事実はもはや重要ではなく、重要なのは個人がどう感じるか、どう思うかという「事実よりも感情」に時代が変化してきているということからだそうです。
あまりにも残念で納得がいきませんよね。
多分、ほとんどの方は事実や真実を重要視されていると思いますが、現代のようなITの進化により情報量が多岐に渡ってきていることから、判断する材料が多すぎて選択が難しくなってきているのでしょう。
結果として、感情を中心とした判断がわかりやすく手っ取り早いことから、こうした言葉「ポスト真実の政治」が生まれてくるのでしょう。
語られない事実に目を向けたい
外国の政治に限らず日本の政治においても「ポスト真実の政治」がまかり通っていると思います。
先日、毎日新聞(2/7日)の特集ワイド版に現政権に対しての記事が掲載されていました。
毎日新聞(2/7日)特集ワイド版
昨年12月13日の参院厚生労働委員会で安倍首相は「もはやデフレではないという状況をつくり出した」。
今年1月20日の施政方針演説では、3年連続の賃上げ実現、名目国内総生産(GDP)44兆円増、有効求人倍率が全都道府県で1倍超え、正規雇用も増加、企業倒産は26年ぶり低水準・・・と明るい話だらけだ。
だが今や、事実かどうかは二の次となる「ポスト・トゥルース(真実)」の時代が到来していると言われる。
語られない事実にこそ目を向けよう。
記事の中で慶応大教授の金子勝さんは、
「消費者物価も企業物価も下がっているのに『デフレではない』なんて一体どういう理屈なのか」と疑問視しています。
16年の消費者物価指数は前年比0.3%減、企業物価指数は21ケ月連続下落。
2年連続減だった家計消費支出も減っている。実質賃金は「賃上げ実現」と言っても、15年まで4年連続の下落。
有効求人倍率の上昇は、人口減で求職者が減っているからに過ぎない。
企業倒産は08年から減り続けている一方で、休廃業・解散は安倍政権になってから増え、16年は過去最多の2万9583件に達した。
「正規雇用の増加」は喜ばしいが、非正規雇用も政権交代前より180万人増えた現実がある。
この他にも国債の評価損、「女性活躍」の中身(企業任せ、男女の間接差別、低賃金問題、シングルマザー問題)などにも言及し、首相が語らない事実が覆い隠されている点も指摘されていました。
これらのことは、ほんの一部のことでしょう。
又、最近では南スーダン問題(自衛隊のPKO活動)もありますよね。
「ポスト真実の政治」は、今まさに日本の政治にも浸透してきているように思えます。
首都大学東京の堀江孝司教授は、
「今の日本は、楽観的で『強い』ことを言う人が評価され、政策の不安視やリスクの列挙は歓迎されない。『好循環している』『もはやデフレでない』と言えば済む。
勇ましい言葉が飛び交い、無謀な戦争に突き進んだ戦前に驚くほど似ています。
どこかの国の新しい大統領になった方にも似ているようです。
感情で判断してしまう傾向
ではなぜ「ポスト真実」の時代になってきたんでしょうか考えてみました。
先ほど冒頭でも述べましたが、ITの進化により情報量の広がりに伴う情報の錯綜があるように思えます。
特に新聞やテレビなどの情報よりインターネット情報の方が格段に広がっています。
記事の中身を見ないでタイトル(表題)や見出しだけで判断してしまうケースがあるのではないでしょうか。
又、個人や利害関係のある組織・グループサイトの情報を鵜呑みしてしまうこともあると思います。
更には偽のニュース(フェイク・ニュース)もあるでしょう。
とりわけツイッターやフェイスブックなどのSNSなどで友人関係、フォロワーな関係になっている人たちの間で情報が共有化されるケースも多いと思います。
これら共通する点は、瞬時に簡単に情報を入手することができることです。
特に個人の意識に関係することであれば、あまり深く考えることなく感情的に表現してしまうこともあると思います。
「いいね」とか「ひどいね」とかの感情を一言で言い表してしまうケースなどです。
もっと角度を変えた意見や考えがあって、そこに事実や真実があっても今の時代この一言で決めてしまうんですね。
このように感情面で物事を判断してしまう、又は、しやすいことから事実や真実が二の次にされてしまうように思われます。
そして同時に不安視やリスクよりも楽観的に「強い」ことを言う人が支持されやすい傾向にもあると思います。
※前述の堀江孝司教授の言葉
事実や真実を無視して「もはやデフレでない」と言い切ってしまうこともそうですが、東京オリンピック招致の時も「福島第一原発の状況は完全にコントロールされている」という首相の一言もポスト真実なんでしょう。
「経済の好循環」「デフレ脱却」「原発はコントロールされている」「社会保障と税の一体改革」「TPP断固反対(選挙公約)」・・・など、ほんの一例です。
これらすべてポスト真実ですね。
2016年の言葉「ポスト真実(Post-truth)」、なるほどと思いました。
「脱ポスト真実」がword of the yearに選ばれる時を望みたいです。
安倍首相の国会答弁を聞いていると、「言葉が通じない」「日本語が日本語ではないような気持ち悪さ」
を感じます。
議員の中にはびこる「うかがわさせていただきます」のような二重三重の敬語を聞いても分かるように、
国会の中は日本語が狂っています。多分、頭の中の論理も狂っているのではないかと思います。
首相の答弁は、巧妙に言い換えたり言葉巧みにだましたりしながら、言葉を軽んじて日本語をさらにあい
まいなものに貶めています。
私は、「ポスト真実」ということからすれば、安倍晋三総理大臣は鵺のような奇々怪々で面妖な人物だと
感じるのです。いやーな感じで感じることしかできない人物です。
mittyさん
コメントありがとうございます。
「巧妙に言い換えたり言葉巧みにだましたりしながら、言葉を軽んじて日本語をさらにあいまいなものに貶めています」
国会答弁を聞いているとなるほどなと私もそう感じます。
質問内容を真摯に受け止めず、反論があっても尊重するという感じではないですよね。
これでは議論を深めることにはつながらない気がします。
今までの自民党の首相の中でも一番危険な感じがします。
それはまさに「ポスト真実」ということが当てはまっているように思えます。
mitty さんと同意見です。
国会答弁は、気持ち悪さの茶番劇場です。
うわっつらだけの、会話ともいえないしゃべくりで、時間を無駄にしている。
しっかりと、とか、精査とか、まったく内容がともなっていない。
あからさまな建前政治(嘘の政治)は、やめてほしい。
ポスト真実? (この言葉も嘘っぽい)、マスコミもきちんとした日本語表現で、
それぞれ明確な意見を出すべきだと思います。
家犬さん
たいへんお久しぶりです。
「ポスト真実」という言葉、家犬さんがおっしゃるように確かにもっとハッキリした表現で出すべきですね。
国会の論議もこれが国を動かしている政治家の議論か?と情けなくなる思いです。
こんな建前だけの議論は空論ですね。
国民の声がしっかり国会に反映できるような政治を望みたいものです。
いつも家犬さんのブログ拝見していますよ。
ぶりちゃん農園でたくさんの野菜ができるといいですね。