書籍:「空気」を読んでも従わない
~私たちの世代を考えて~
退職後の「世間」と「社会」との関わり
「空気」を読む!?
私たちの日常生活の中では、いたるところでその場の雰囲気を察して、暗黙のうちに了解したり要求されたりすることが意外と多いです。
言い換えれば、その「空気」というのは「雰囲気」、「ムード」、「流れ」、「ノリ」なんて言葉で表すことができます。
そして、それを「読む」「読んで」その雰囲気や流れに乗ることがあったりします。
これは日本独特の習慣なのかもしれません。
長い人生の中で大半の時間を費やしてきた場所には職場(会社)があります。
特にこうした場所では、会社のミーティング、上司・部下との会話、仕事帰りの飲み会(宴会・打ち上げパーティー)などにおいて、その場の雰囲気というものが重要視されたりします。
ミーティングや会話、又、仕事が終わっての飲み会の席であっても、上司が同席していることでその場の雰囲気は上司が主導権を握ることになります。
又、取引先の接待もあります。
無礼講だと言ってもそれは許されるものではないでしょう。
この場合、「空気」を読んでそれに従うことが最も身の安全につながるということがあります。
逆に、その場の「空気」を読めないということは大きな失態につながることもあるでしょう。
こうした場所(仕事)には常に ”利害関係” ”損得勘定” があるからだと思います。
以前新聞の書籍広告欄に、『「空気」を読んでも従わない』(鴻上尚史著:岩波ジュニア新書)という本が紹介されていました。
このタイトルだけで面白そうだなと思い、図書館へ借りに行きました。
2019年4月出版でまだ新しさがあったのか、予約して手元に届いたのが2ケ月後でした。
この書籍はジュニア新書ということもあって、若い世代を対象にした本でした。
私のような長年仕事にたずさわり退職した60代のオヤジにとってもなるほどなと感じるものが多々ありました。
本書では、「世間」と「社会」というものを説きながら話が進んでいきます。
世間と社会?
私は同じような意味合いとして今まで捉えていましたが・・・。
例えば、「世間体」(せけんてい)という言葉があります。
これは、周りの人から見て、自分や家族がどのように見られているか?というような意味を持ちます。
「世間」というのは、あなたと、現在または将来、関係のある人たちのことです。
「社会」というのは、あなたと、現在または将来、なんの関係もない人たちのことです。
本書より抜粋
このように二つの違いを考えた時、なるほどと納得してしまうものがありました。
「世間」というのは、自分や家族の周囲に存在する人たちのことを指し、又、同じ時間や空間を共有している人たちのことなんです。
例えば、友人・知人、親戚、ご近所、地域の自治会、趣味同好会仲間、会社・取引先の人などを指します。
「社会」というのは、自分や家族が全く知らない人を指すもので、町ですれ違った人や電車で隣の席に座った人、外国人もそうでしょう。
「世間体」というのは、自分や家族のことを知っている人から見てどのように見られているかです。
逆に、名前も顔も知らない人から見ては、何ら関心がないし気にもされないのではないでしょうか。
日本は江戸期の頃から長い間封建制度が続いてきました。
こうした中では ”村社会” の単位で協力し合うと同時にお互いを監視し合うこともありました。
又、村の長老の意見、考えに従い、お上(おかみ)に対しては絶対的な服従関係にあったことから逆らうこともできませんでした。
こうした習慣というのものは、戦後の民主化によって解体されたとはいっても、長い歴史が育んできたモノはなかなか消えるものではありません。
まさに「世間体」という意味合いの気持ちは、まだまだ根強く残っています。
社会の変化と核家族が進むにつれて、「個」への重視が尊重されるようになってきました。
例えば、一昔前の旅行では、自治会や農協などが主催した団体旅行が主流でしたが、今では個人旅行やツアー(個人参加)が主流になっています。
又、海外旅行をとおして「社会」とのつながりや見聞を広めることも経験するようになりました。
そういう意味では「世間」から「社会」というものを見て考える機会は増えたと思いますが・・・。
自分たちの生活の基盤である職場(会社)は前述したように「世間」です。
様々な「社会」を見てこれは良いことだ、それはおかしなことだという考えを持ったとしても組織(会社)の中には「空気」というものが存在することで、なかなか一歩前に出ることができない場合があります。
「強い世間」と「弱い世間」
筆者はこの本の中で「強い世間」と「弱い世間」について話されていました。
言葉のニュアンスから ”強いつながり、弱いつながり” の「世間」という意味です。
猛烈なサラリーマンの人が、定年退職した後、ヌケガラのようになることがあります。
生きがいを見つけられず、何もできない人になってしまう例です。
それは、会社が、たったひとつの「世間」だったからです。
だから、定年退職して、会社を辞めてしまうと、もう、生きていく「世間」がなかったのです。
本書より抜粋
こうした退職後の生活については、上記のようなことがよく言われたりします。
会社という「強い世間」の中で生きてきたことが自分の存在を確認する場(アイデンティティ)だったため、その拠り所、帰属性がなくなったことでヌケガラ?になってしまうのでしょう。
たったひとつの『世間』とぶつかったり、追い出されたりして、生き苦しくなることを避ける方法は二つあります。
ひとつは、同時に他の弱い「世間」に所属することです。
もうひとつは、「社会話」をできるようになることです。
本書より抜粋
退職後、趣味を持って過ごすことをよく言われたりします。
趣味仲間との交流、地域のサークルやボランティア活動など「弱い世間」に属することで、自分が自分であるという存在意義を見出すことができるのでしょう。
できれば、いくつかの「弱い世間」に所属できればいいと筆者は説いていました。
こうした「弱い世間」でも一つのグループ・組織です。
退職後こうした世界に入ったとしても、今までのような「強い世間」(会社)とは違います。
それは、利害関係がないことです。
このような場で今までと同じように「空気」を読んだとしてもそれに従う必要はないと思います。
自分のやりたいこと、考えていることをしっかり相手に伝えることが大事でしょう。
「空気」が、自分の考えと異なる方向に流れていったとしたら、その場で意見を述べることも大事なことだと思います。
「しょうがない」という言葉?
「社会話」ができることは、退職者にとっては大きな宝物のように思います。
例えば、旅行先で見ず知らずの人と自由にいろいろな話ができ、相手の情報や考えていることなど ”自分にないモノ” を与えてくれます。
それは今まで狭い世界=「強い世間」(会社)で長年生きてきたことで、今まで見えなかった、見ることがなかった「社会」というものがよく見えてくるからです。
私たちの生活に密接している政治も「社会」です。
なぜ年金が減らされていくのか、なぜ健康保険料や介護保険料がこんなに高いのか、なぜ保育所がこんなに少ないのか、1日8時間以上働いてもなぜ生活にゆとりがないのか・・・。
なぜモリカケ問題は政治家の責任追及に至らなかったのか、汚職・贈賄はなぜこんなに起きて追及されないのか・・・。
コロナ禍の中でなぜ自粛と補償が一体にならないのか、なぜPCR検査体制が整わず強化されないのか・・・。
なぜ?、どうして?・・・そして次に出る一言は、「しょうがない」の言葉が出てきてしまうように思います。
本書では、この「しょうがない」という言葉に触れていました。
私たち日本人は、とても「しょうがない」という言葉を連発する民族です。
あなたはどうですか?
何かあると、「しょうがない」と言っていませんか?それはあなたの性格というより、あなたの身体の中に流れる日本人の記憶です。
とりあえず「しょうがない」という言葉で現実をスルーするか受け入れるのです。
そういう考え方が身についているのです。
本書より抜粋
様々な疑問や怒りに対して、「しょうがない」の一言で片付けたり、問題を先送りにしたり、結果 ”あきらめの習慣” があるように思えます。
そうすると、どんなことが起るかというと、「身をまかす」ということが日本人の特徴になります。
今ある状態を受け入れ、文句も言わず、従うということです。
よっぽどのことがない限り、私達は決められたことに身をまかします。
本書より抜粋
退職された方々は、今までの長い人生の中で様々な「世間」で生き抜き、そして「社会」というものに触れてきました。
そこにはどうしても「世間」の目というものを意識してきたのではないでしょうか。
私もそうした中で生きてきました。
それは、「強い世間」(仕事)の中では ”利害関係” があったことで、自分の身を守る意味で ”「空気」を読んで従う” という行為が確かにありました。
退職後、私は今まで見えてこなかった、見ようとしなかった「社会」というものが見え始めてきました。
いろいろな「なぜ、どうして?」という疑問は、”「空気」を読んで「しょうがない」” と片づけていたことが、それでは済まされないのではないかと思うようになりました。
それは、子どもの落書きを「しょうがないな~」の一言で済ますものとは全く次元の違うものです。
私たちの生活や安全、更には将来に渡っての安心な生活に直接関わる問題だからです。
退職者にとっては「強い世間」と「しがらみ」はもうありません。
そして私たちの世代は、”「空気」を読む力” があり、”読んでもそれに従うか、従わないかの判断力” は十分に持ち合わせていると思います。
なぜなら、長い間「世間」と「社会」の中で生き抜いてきたからです。
社会的な地位・肩書き、政治的な権力などの強い力に対して、「空気」を読んでも、あえてその「空気」を読まないことも大事なことではないかと思います。
それができるのは私たちの世代だと思います。
自分(自分たち)が正しいと思う考えから違う方向に流れようとしている時、「空気」を読む必要はないと思います。読んでもそれに対してしっかり意見・考えを述べることが必要であり、それができるのは私たちの世代です。
集団活動の場では、”和を重んじる” ”協調性” という意味の言葉があります。
私はそれは大事なことだと思います。
個々の考えが異なっているとしても、相手の考えを尊重することは必要だと思うからです。
何でもかんでも自分の意見を押し通すのではなく、相手の意見にもしっかり耳を傾け議論を尽くすこと。
空気を読むから一方向にどうしても読んで流されてしまう傾向があります。だからこそ意見をしっかり述べあうことが大切ではないでしょうか。
「空気」を読む・・・、一般的に良い解釈として使われます。
「空気」を読んで、言われなくても次の行動に移す。「空気」を読んでスピーディに対応する・・・。
しかし、時と場合によっては、”水を差す” ”一石を投じる” 行為と言動が必要ではないでしょうか。
退職後、私たちの世代は一歩も二歩も外から「世間」や「社会」というものを見ることができるようになりました。
今までと同じように、流されるのではなく、妥協することもなく、身をまかせることもなく、ハッキリと言うことができる立場にあると思います。