ローマ教皇の来日

世界平和へのメッセージ

「核兵器廃絶」「原発廃止」を支持!

 

先週、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇が来日しました。

私はキリスト教信者ではありませんが、
あらゆる思想信条、宗教信仰を乗り越えて人類平和への願いを発信されました。

今、世界で起きている紛争や軍備拡大・核保有、原発の推進などに触れ、これらは国際的な平和と安定を破壊し悲劇的な結末をもたらすものと発信しました。
人類で初めて原爆が投下された長崎・広島の地において、こうした世界平和へのメッセージが発信されたことは大きな意味を持つものだと思います。

 

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朝日新聞の一面見出し: ”ローマ教皇 核廃絶訴え”
毎日新聞の一面見出し: ”核保有「途方もないテロ」” 

 

核保有国や日本をはじめ、必ず言う言葉の一つとして「軍備の均衡」「抑止力」論を真正面から否定したメッセージに胸のすく思いがしました。

「軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要がある」
「核兵器は、今日の国際的また国家の、安全保障への脅威からわたしたちを守ってくれるものではない」
「核の理論によって促される、恐れ、不信、敵意の増幅を止めなければならない」

更に、軍備拡大する国々が、平和について話すことに対して、”単なる「発せられることば」に過ぎなくなる” と断言しました。

「戦争のための最新鋭で強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなどどうしてできるのか」
「自分だけの利益を求めるため、他者に何かを強いることが正当化されてよいはずはない」
「核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるのか」

※ローマ教皇の長崎、広島での「核兵器についてのメッセージ」(全文)から抜粋

 

ローマ教皇は長崎・広島訪問の後、首相官邸を訪れ安倍首相と面会しました。
この時、安倍首相は、

「日本とは、唯一の戦争被爆国として『核兵器のない世界』の実現に向け、国際社会の取り組みを主導していく使命を持つ国」
「私たちはこれからも、核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努め、双方の協力を得ながら対話を促す努力において決して倦むことはない」
と語りました。

皆さん、この首相の発言をどう捉え、どのように思われましたか?

私は、まさにこうした発言が、ローマ教皇が述べた ”平和を語る単なる「発せられることば」に過ぎない” と思いました。
橋渡し?、対話を促す?、日本は唯一の被爆国であるにもかかわらず、核兵器禁止条約に参加していないのはなぜでしょうか?
それはまさに ”核抑止力論を維持” するためなんですね。「核の傘」なるものの共犯者になっている国なんです。
唯一の被爆国なのに全く恥ずかしい限りです。

ブログ:核兵器禁止条約
ブログ:核抑止力論

 

そしてこうした安倍首相の発言とは裏腹に、2020年の防衛費は5兆3223億円に上り過去最大です。
更に、「中期防衛力整備計画」では5年間で27兆4千7百億円の軍事費を投入する大軍拡計画があります。
最新型ステルス戦闘機、地上配備型迎撃システムの「イージスアショア」の導入、オスプレイや無人偵察機なども増強しようとしています。
又、沖縄辺野古の米軍新基地建設が行われています。
この時も沖縄県民の大多数の反対にもかかわらず「県民の気持ちに寄り添う」と述べ、言葉とは裏腹に埋め立てが強行されています。
こうした言動に対してもローマ教皇は、”平和を語る単なる「発せられることば」に過ぎない” ことをすでに見抜いていたのでしょう。

私たちが知らないところで軍備拡大が進み、私たちの大事な税金が使われているのです。
そして、このことは隣国に対しても脅威となり威嚇に通じるものがあります。
日本は今、唯一の被爆国でありながらも平和を語る資格があるのでしょうか。

 

「相互」という言葉

 

ローマ教皇の長崎での「核兵器についてのメッセージ」に ”相互” という言葉が複数回発せられていました。

「相互破壊」「相互不信」「相互尊重」「相互の信頼」「相互の違い」「相互の対話」「相互の発展」

これらの言葉の前後の文を述べなくても多分推測できると思います。

教皇は、「真の平和とは、非武装の平和以外にありえません」と断言していました。
この発言の裏には、すべて ”相互” という意味が大きく関連していると思います。
それは、破壊や不信ではなく、尊重・信頼・対話をすることでお互いの違いを理解し合い、発展させていくものではないかと。

そんなことはきれいごとと思われるかもしれませんが、これなくしては真の平和を実現することは不可能ではないでしょうか。
一人ひとりがそう感じ、そのとおりだと思うことが大事なことだと思います。
そして何らかの意思表示をすることこそ現状を変えていくものではないでしょうか。

 

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東京新聞の一面見出
”核なき世界の実現 可能であり不可欠”
”戦争はもういらない声合わせ叫ぼう”

 

以前、読んだ本「フェイクと憎悪」の中で、沖縄で新たに建設されたヘリパット基地周辺の反対派住民の対話からこのようなことが書かれていました。

「政治的でないことが世の中にあるなら教えてほしい。全部政治的です。つまり、モノを言わないことが政治的なんですよ。十分に」
何もしない、何も言わないことが中立だと信じる人は少なくない。何か行動を起こせば、周囲から「政治的」だと揶揄されることも多い。だが、「何も言わない」ことこそ政権や政策を支持する立場の表明だ。

私たちの生活すべては政治との関わりがあります。
具体的な行動を起こさなくてもその意思は明確にすることが大事だと思います。
そう思っても「何も言わなければ」その流れに流されていってしまうでしょう。

今回のローマ教皇のメッセージには、そうしたことも含め唯一の被爆国である日本から世界に発信されたことは大きな意義を持つものだったのではないでしょうか。

4 thoughts on “ローマ教皇の来日

  1. 浅学卑賤の自分には詭弁を語る人は信じれません。
    よくも白々しく言えるもので、まさに政治屋でしょうね。
    管理人さんのご意見に同感です。

    水戸黄門のように勧善懲悪な番組が続くのは、こういう世の中だからこそ
    庶民の願望を満たしてくれるものに期待している証左でしょう。
    とは言え、期待していたら変わるものではないので、一人一人の行動が
    大切ですね。そのために1票を投じたいのですが、それに値する候補者が
    見当たらないのが現実ではないでしょうか。

    昭和や平成は四書五経の一つである書経から出ており、ともに平和を願って
    いるのに対して、令和は「梅の開花とともに、春の訪れを喜ぶ」内容で
    何処にも平和なんて願ってないんです。
    即位後初めてのお言葉に「世界の平和を切に希望します」とおっしゃられた
    天皇陛下のお気持ちに寄り添わない政権に憤りを禁じえません。
    だから私の拘りで、改元後は令和を使わず西暦で通しています。

    歴史を見れば分かるように、江戸300年は戦争が無かったんですよね。
    それが偶々、蚊帳の外に置かれていた長州勢が天皇を担ぎ出して権力を
    握ったことで、国民を戦争へと追いやった。
    そして「勝算のない戦いはしない」と言う孫氏の兵法を無視して、敗戦に
    追い込まれたのに、責任を天皇に被せてずるがしこく生き延びた。
    それがまた、戦争ができる国にしたいのでしょう。

    そういう一族だからこそ「首相にしてはならない」と元官房長官の後藤田
    正晴氏が言ったそうですよ。

    https://yuzawaheiwa.blogspot.com/2018/07/blog-post_6.html

    1. 凡夫さん

      たいへんお久しぶりですね。
      コメントありがとうございます。

      >期待していたら変わるものではないので、一人一人の行動が大切ですね。

      私も同感です。
      そう思っていても変わらないから「何もしない」では変わりませんよね。
      具体的な行動を取らなくても、そう感じた気持ちを周囲の人たちと話すこと、意見を言うことでも大事なことではないかと思います。

      薄っぺらな「ことば」だけの話や大きな声だけに惑わされず、その「行動」をしっかり見極めることが大事ではないかと。
      まずは自分の意志をハッキリ持つことが大切だと思います。
      選挙は個人の意思表示をする場です。それだけでも大きな行動ではないでしょうか。

      先日、県知事選がありました。候補者の考えや政策を聞きましたが、どの候補も自分たちの考えと一致しない候補者ばかりでした。
      こうした時、一般的には棄権するのでしょうが、私たち夫婦は白票にしました。
      選挙権を得て40年以上経ちますが、はじめての行動でした。
      選挙での棄権は、「何もしない」ことに通じます。何もしないことは肯定につながります。
      どんな時でも自分たちの意思表示は最低限したいと思っています。

      軍備拡大や核抑止力論を唱える勢力に「NO」と言える一票は、大事な行動だと思います。

      >即位後初めてのお言葉に「世界の平和を切に希望します」とおっしゃられた天皇陛下のお気持ちに寄り添わない政権に憤りを禁じえません。

      全く同感です。
      平成の天皇は、何度も沖縄や被災地に足を運びました。
      令和の天皇も同じ行動をとるでしょう。
      そして、こうした天皇陛下とローマ教皇の言動は同じものだと思います。
      「世界の平和を切に希望します」というお言葉の裏にはどのような想いがあるのか、現政権は何も分かっていません。

      貴重なご意見ありがとうございました。
      また時々でも結構ですのでコメントください。

      1. 私も白票を投じます。
        現行制度では、不満の意思表示はこれしかないんですよね。

        出来れば、この白票の意味を理解して、白票数が最大になった時は再選挙にする。
        それも再度の立候補は認めず、新たな候補者で行う。

        あるいは、投票率が50%未満であれば無効にする。
        (なぜなら50%の投票率で当選するには、その過半数で良いわけなので、
        有権者の1/4で当選するんですよね。これって納得できますか?)

        こういったことを訴えてくれる候補者が出ることを望んでやみません。

        1. 凡夫さん

          今までの国政選挙では白票はありませんでした。
          今回の県知事選の白票は、私にとって初めてのケースでした。

          自分たちの要望と全てが一致する候補者(政党)はなかなか難しいものがあると思います。
          少なくてもこれだけは(政策)と一致する候補者であれば支持する価値はあると思います。
          例えば、核兵器廃絶、原発ゼロ、安保法制、憲法改定問題、社会保障問題、消費税増税など・・、何らかの基準を持って一致するものであればいいと思ってます。

          白票であっても現状を変えることはできません。
          であるなら少しでも変えられる望みを持つ候補者(政党)を支持する意味はあると思います。
          結果として死票(落選)になったとしても、自分の意志や考えを持ち続けることは大事なことではないかと思います。

          今回のローマ教皇の発信は、そういうことを含め改めて教えられるものがありました。

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